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「情報の99%を疑って生きる時代」2023年3月19日 関野和寛牧師

四旬節第4主日

聖書箇所:サムエル記上16章1-13節、エフェソの信徒への手紙5章8-14節、ヨハネによる福音書9章1-41節


ヨハネ福音書は光と闇を描く。イエスと敵対していた議員集団に属するニコデモは「どうしてもイエスの事を詳しく知りたい、でも立場上イエスに親しく近づけない」と彼は夜の闇にまみれてイエスに会いに行った。

逆に過去に5回の離婚歴を持つサマリアの女性は、白昼にイエスと出会った。彼女は誰も井戸に水を汲みに来ない

炎天下の昼を選んだ。その生き方が故に周りから軽蔑されていたからだ。激しく照りつける太陽のもと、

彼女の闇は限りなく深かった。ファリサイ派もサマリア人も本来ならイエスと相入れないセクト、彼らはそのセクトの監視、人目という闇の中にいたのだ。


そして今日取り上げるのは生まれつきの盲目の男。生まれてこの方、両親の顔も見たことがない。字も読めなければ

点字もない。このような弱者は、生まれつきの罪人、呪われた者として、人扱いされていなかった。

社会福祉もない時代、彼に技能を身につける機会など全くない。呪われた者としてこどもの時からずっと道端に座り込んで物乞いをしていたのだ。10年以上、365日、この闇は明けたことがない。


イエスはこの闇に向かって言うのだ「彼が見えないのは彼や、両親の罪のせいではない、神の力がこの人に現れるためだ」と。これを聞いた弟子たちは唖然とした。社会で最下層、しかも最も罪深い人に神の業が現れる訳などありはしないからだ。


だが聖書の神は人が発想できない方法で無から有を創り出す。そしてカオスに秩序、闇に光をもたらしていくのだ。

イエスはこの生まれつきの盲人に象徴的な事を行う。まるで神がエデンの園でアダムを土の塵から形作って息を吹き込んで命を与えたように、イエスは自分の唾で土をこねて、それを盲人の目に塗ったのだ。まるで陶芸家が土の中から

作品を創り出すように、誰も触れなかったこの男の命、誰もが見つけられなかったこの男の命を泥の中から再創造するのだ。


そしてヨハネ福音書はこれでもかというほどにシンボルを使う。闇と光、そして水だ。

イエスの唾液で練った土を目に塗るだけではこの男の目は開眼しない。「シロアムの池に行って、その目を洗ってきなさい」とイエスは男に命じる。そうイエスは男に行動を求めるのだ。男はまだ癒やされていない、見えないまま、

シロアムの池に行かなくてはならないのだ。


ここで信仰が試される。唾液で混ぜた土を目に塗られ、それを洗いに行く事で生まれつきの全盲が治った事など、

人類史では起こった事がない。前例がない、かつこの上ない非合理的な事をそれでも信じ行動できるか?何かとすぐに調べて、周りの人々の様子を伺う現代人にはおおよそできない。けれどもこの男はベトサイダの池に行く。

道なき道をはいつくばりながら。信じているからか、いや信じられないが、もうこれしかないのだ。


信仰とは100%信じるという事ではない。100%起こり得ないことを、「でもこれしかない」藁をも掴む思いで這いつくばり、見えない中で前に進む事ではないか。そしてこの男は見えるようになる。だがこの男がはじめて見た親の顔は不安で満ちていた。宗教者たちがイエスのこの奇跡を疑い、親を問い詰め自分の身に起きた奇跡を悪魔の魔術のように疑うのだ。


そしてここから本当の奇跡がはじまる。イエスは追い出された彼に会いに行くのだ。だが彼はイエスが目の前に現れても認識できない。イエスの顔を見たことがないからだ。けれども語り合いによって男はイエスを認識する。声を聴いて、その命令に従い癒され、そして肉眼でイエスを見ても、それでも男は分からなかった。

人はどこまでも神が見えない、光を見つけられない。神に見つけられ、そして神を疑い、問いかけ語り合う時に光の中に招かれる。


ヨハネの福音書はその事を見事に描く。夜に御忍びで来たニコデモも、人が水汲みに来ない炎天下の中に井戸に来た訳ありのサマリアの女も闇の中にいた。二人共に人目の中、人の評価基準の中で生きていたか。だが人目の中に

自分を隠し生きている時、それは闇だ。そして闇の中でイエスと出会い、疑い、語らう時、初めて人の価値、前例を超えた光の世界を人を見る。


イエスは盲人を癒す奇跡の治療を、医療行為さえ禁止された安息日に行った。イエスもイエスに癒やされたこの男も断罪され、この男は追い出される。だが追い出されたとしても、この男は村の中にいながら、最初から居場所などなかったのだ。目が見えない時は呪われ、そして目が見えるようになっては批判される。

誰もこの男に起きた奇跡を喜んでくれないのだ。「おめでとう!」「よかったね!」単純な祝福の言葉を誰もかけ

ないのだ。だからイエスは彼を再創造して祝福したのだ。安息日を破ったのではなく、安息日を完成させるのだ。

断罪ではなく祝福の光を届けるのだ。


私たちはこの安息日、日曜日に教会に集う。新しい一週間の始まりではない。人目の中で生きるのではなく、

人の価値観や前例に縛られるのではなく、神が私たちに与えた唯一の価値を信じ、全く新しい自分の一歩を今日

祝うのだ。

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