top of page

「盲人バルティマイの信仰」2021年10月24日 田中博二牧師

聖霊降臨後第22主日

聖書箇所:エレミヤ書31章7-9、ヘブライ人への手紙7章23-28、マルコの福音書10章46-52


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなた方にあるように。アーメン


イエスさまと弟子たちの一行は、故郷の地ガリラヤから都エルサレムへと、約150キロの旅を続けて来られました。いよいよ、エルサレムの都近く、エリコの町を通り過ぎることになります。

エリコはあたり一面、砂漠が広がっている中で、緑多く湧水が豊富に流れているオアシスとなっていました。歴史的

にも最も古い町に数えられ、砂漠の民がしばし憩うところとなっていました。

イエス様と一行はひと休みされて、いよいよ都エルサレムへと上って行かれます。そして、その時突然、予期しない叫び声が起こりました。

 

エリコからエルサレムへと向かう道で、物乞いをしていた一人の盲人バルティマイの叫び声です。彼はナザレのイエスが来られたというので、大声でこう叫ぶのです。

47節、48節。「ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください、と言い始めた。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください、と叫び続けた。」

エリコの町に住むこの盲人バルティマイの耳にも、イエス様のうわさは届いていたのでしょう。ナザレのイエスという預言者がおいでになる。その方は、病いの中にある者を癒し、目の見えない人、耳の聞こえない人を癒してくださるお方だという評判を聞いていたのでしょう。盲人バルティマイは、ナザレのイエスがおいでになったことを知って、精一杯、彼の願いを訴え出るのです。

そして、このときバルティマイはイエス様に対して、思い切った行動に出ているのです。それは、イエス様への呼びかけに表われています。彼は、イエス様を、「ダビデの子イエスよ」とお呼びするのです。ナザレのイエスというお名前はこれまでもありました。ガリラヤのナザレ出身のイエスというお名前であることは知られていました。しかし、バルティマイがお呼びした「ダビデの子イエス」というお名前は、特別の意味がありました。それは、イスラエルの救

い主、キリスト、メシアを意味するお名前です。旧約聖書にあるダビデ王国を引き継ぐお方であるということです。

 

盲人バルティマイを、多くの人々が叱りつけて、黙らせようとしましたが、ますます「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」と叫び続けました。それほど、彼の願い、バルティマイの思いは強いのです。

そして、このときバルティマイがイエス様に向かって叫んだ、「主よ、あわれんでください」の言葉に聞きおぼえがないでしょうか。それは、ギリシャ語でキリエ エレイソン、主よ、あわれんでください、の言葉です。毎週の礼拝

のなかで唱え、歌っているキリエ、主よ、あわれんでくださいの言葉です。実は教会の礼拝の中で、主よ、あわれんくださいと唱え歌っているのですが、むしろ、最初に叫び、唱えたのが今日のバルティマイということです。

イエス様に向かって、エリコの町の道ばたにて、主よ、あわれんでください、キリストよ、あわれんでくださいと叫んだバルティマイがいるというのです。このバルティマイの叫びに合わせて、わたしたちは今、唱え歌っているのです。

わたしたちはバルティマイの後で一緒に、唱え歌っているのです。

そういう意味では、私たち自身、バルティマイと同様、イエス様のあわれみを求めて道ばたに座っている者に過ぎないのです。バルティマイと同様、主よ、あわれんでください、と叫び、願っている者でありましょう。

そのことを教えてくれた人がいます。ルーテル教会の先達であります、マルティン・ルターも、道ばたで物乞いをしているバルティマイと同じような者だと述べています。特に、ルターが病いのなかで死の床にあるとき、自らの生涯

を振り返って短い遺言を残していますが、その最後のことばとしてこう伝えられています。

「100年間、預言者と共に教会を導いたのでなければ聖書を十分味わったとは思えない。」「わたしたちは神の物乞いである。これはまことだ」と記しています。すべてのものを神様から与えられて、神様にのみ頼って生きていく、それがルターの最後の思いだったのです。

 

さて、イエス様は立ち止まって、あの男を呼んで来なさいと言われます。人々は盲人バルティマイを呼んできます。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」バルティマイはイエス様のみもとに進みます。彼は、着ていた上着を脱ぎすてて、喜び、躍り上がってイエス様のもとへ参ります。

このとき、イエス様は盲人バルティマイを呼び寄せてこう言われます。「何をしてほしいのか」。彼は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。イエス様のおことばは、一見、不思議に思えます。「何をして欲しいの

か?」イエス様は直接、バルティマイの願いをお聞きになられます。彼が本心から、何を願い、何を求めているのか、お聞きになられます。そのとき、主イエスはすでにバルティマイのこころの中をご存じです。しかし、あえて、イエス様はバルティマイの願いをお聞きになられるのです。

バルティマイは、イエス様のお名前を聞いて、ダビデの子イエスよ、と大胆に信仰を明らかにしています。他の誰よりも早く、イエス様を救い主、メシアと呼んでいます。そして、イエス様のみ前に立つとき、「先生、目が見えるよ

うになりたいのです」とはっきりイエス様への願いを表わすことができるのです。


そしてここで、「先生」と盲人バルティマイは呼んでいるのですが、この先生というお名前は、又、特別な意味を持っているのです。先生という呼び名は、今の私たちにとっても、便利な言葉です。尊敬を込めて、呼び名を言う場合

が多いのですが、時々、冷やかし気味に、先生そんなことをしては困りますよ、というように、なれなれしいときもあります。また、先生ということで、学問や教えを語ってくれる人、中学、高校の先生のように授業をしてくれる人ということもあります。そして、イエス様に出会った多くの人々が、律法の教師、教えを伝える方としてイエス様を「先生」と呼んでいることを思わされます。


しかしここで、盲人バルティマイがお呼びしている「先生」というお名前は、もっと別の、真実に尊敬を込めて呼んでいるところの「先生」です。新約聖書の中で、もう一か所「先生」と呼ばれているところがあります。「先生」とは、ヘブライ語のラビからきているもので、特にラボニと呼ばれています。

ヨハネ福音書20章の個所で、イエス様が十字架の死より三日目に復活された朝、マグダラのマリアにお姿を現わしてくださいました。園の番人かと思っていたマリアに対して、イエス様は「マリア」と呼びかけてくださいます。彼女は、復活の主のお姿を見て、「先生」ラボニとお呼びして、まことに復活の主がマリアにお姿を現わしてくださったことを悟るのです。

 

今日、盲人バルティマイがイエス様に向かって呼びかけたお名前が、このラボニ、先生という呼び名であったことは大変、意義深いものです。バルティマイは、こころから真の救い主であるイエス様に出会っているのです。

では、私たちにとって、イエス様とはどういうお方なのでしょうか。学問や教えを語ってくれるお方でしょうか。或いは、律法の教えを与えてくださった先生でしょうか。いや、そうではありません。

これまで見てきましたように、マグダラのマリアに出会ってくださり、盲人バルティマイに出会ってくださった「先生」ラボニなるお方です。またダビデの子イエスとしてお出でになった救い主キリストです。バルティマイがそうで

あったように、私たちもまた、こころから、主よ、あわれんでくださいと願い求めるものです。私たちの日々の悲しみ、苦しみを、イエス様に打ち明け、こころからの救いを願い求めることが出来るのです。救い主イエスのみ前に立つ

者とされていくのです。そして、そのとき、イエス様から慰めと励ましの祝福が与えられていくのであります。

52節:そこでイエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」。盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。

今日、「あなたの信仰があなたを救った」と主イエスは、私たち、一人ひとりを祝福してくださいます。


祈り

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたのこころと思いとを

キリスト・イエスにあって守るように アーメン

bottom of page