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証(あかし):神学生 福島慎太郎「イエス、もう一回来るってよ」2022年11月27日

待降節第1主日(第1アドベント)

聖書箇所:イザヤ書2章1-5節、ローマの信徒への手紙13章11-14節、マタイによる福音書24章36-44節


 メッセージの前に一つ感謝ですが、今日着ているガウンは亡き内海牧師のものをいただきました。

ルーテル教会の伝統を学んでいる最中のこの者ですが、一人の献身者としてこれほど嬉しい頂き物はありません。

譲る決断をしてくださった奥様に感謝いたします。ただYouTubeを見て、ガウンを着た私を「ちょっと太った天使」と揶揄した友人がいました。私は彼を許しません。


 キリスト教の暦において今日から「アドベント」という期間が始まります。日本語で「待降節」となるこの言葉は

イエス・キリストの再臨―もう一度この地上に来る約束を待ち望むことを意味します。またカトリック教会やプロテスタント教会では基本的にこの日を教会の一年の始まりと考えています。

 

 新年と言えば「商売繁盛」、「家内安全」を神社でお祈りするのが日本の伝統です。しかし教会の新年の一言目に語られている言葉、それは「わたしはいつ来るか分からないぞ」というイエスの言葉なのです。

 

 聖書の時代は実は今と同じくらい混乱していました。今日ではコロナウイルスがまた感染者を増やしていますが、

聖書の時代もツァラアトという皮膚の病が流行していました。しかも医学的な観点が乏しかったため、適切な治療を施せば寛解するにも関わらず、空気感染するとか様々なことが言われていました。聖書で宗教者や市民が病の人を差別・区別していたのも往々にしてそのような誤解から来ていました。また経済的にもとてつもない格差があり、一部の富裕層―政治的なリーダーや律法学者、宗教者とそれ以外の一般市民では天と地ほどの生活レベルでした。

 

 そのような中で弟子たち、人々の希望は「いつこの苦難が終わるのか」ということでした。終わりが見えない旅路ほど辛いものはありません。皆さん、私は終わりのない旅路を歩いています。困難の中を歩いています。なんだと思いますでしょうか。それは「ダイエット」です。なるべく食べないと心掛けている。しかし先週は教会の方にカレーをご馳走していただき3杯完食し、スーツがはちきれそうになりました。


 イエスの言葉、私たちは「いつ」ということに目を向けてしまいがちです。しかしイエスが言いたかったことはそこではないと思います。ここで大切なこと、それは「わたしは必ずもう一度来る」ということではないでしょうか。

 

 人間は古代から先の未来が見えればと願ってきました。占星術や予知能力、様々なものに関心を

しめしてきました。聖書に出てくる登場人物も同じです。先が見えれば。私たちも同じです。先が見えればもう少し

人生は楽になるのではないかと思います。


 しかしイエスは言うのです。「それは誰にも分からない」。これはイエスが冷たいのではなく、私たち人間には分からないのだと思います。そして何よりも「いつ」ということそれ自体、人間にとって大切ではないのだと思います。

生きることで一番大切なこと、それは弟子たちが、人々が、私たちが、今日を「誰と」ともにいるかなのだと思います。


 生きていることは、死への道のりでもあります。皆いつかは死にます。人生における不安も様々です。進路をどうするかとか、就職をどうするか、人間関係も不安だし、社会情勢も安心できない。しかしいつかこの世界をもう一度新たにすると約束する人がいるのです。イエスです。


 彼は言うのです。「終わりの日がいつかは分からない。今日かもしれないし、一年後かもしれない。だけどあなたたちは分からない。しかしわたしは2000年前と同じように、もう一度ここに来る。あなたはそのことを忘れてはならない。この社会が、あなたが、どのような状況になってもわたしはあなたの手を離さない。だからわたしが来ることを忘れるな」。


 今日、私たちはアドベントを迎えました。イエスの再臨を待ち望む日です。それはこの世界にー迷い続ける社会と

私たちの間にもう一度イエスが来るという約束を確信する時です。それがいつかは分からない。しかし必ず来るイエスを待ち望みたいと思います。

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