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「復活と命の主」2020年3月29日

四旬節第5主日

聖書箇所:ヨハネによる福音書11章1-45節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなた方にあるように。アーメン


 今日の福音の場面は愛する兄弟を亡くしたマルタという女性に対して、イエス・キリストとのやりとりのものです。「終わりの日の復活の時に復活することは存じていると」語る、マルタに対して、主イエスは、真っ向から対立する言葉を語ります。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じるも者はだれも、決して死ぬことはない」。ここで主イエスは、マルタが、「存じております」と語っている復活について、「わたしこそ、その復活である」と言われているのです。主イエスが復活であり命であるとはどういうことでしょうか。それは、主イエスに結ばれて生きることこそ死を越える真の命があるということです。このことは、主イエスによって示された、救いのみ業の全体から捉える必要があります。主イエスは、人間の罪のために、十字架で死に、その死から復活することによって、罪と死の力に勝利されました。罪というのは、一言で言うならば、私たち人間が、神様を離れ、神様と隣人を愛することにおいて破れがあることです。そして、死というのは、根本的に、人間が罪によって神様に背いているが故にもたらされるものでもあると考える神学者もいます。


 罪と死といいますと、現実とかけ離れた恐いような印象をもってしまします。普段の日常生活で、それを意識することは常にないからです。しかし、新型コロナウィルスの感染の拡大の今の現状では、罹患して悪化していけば、命の危険があります。それと結び合わされていることを考えれば、まんざら「死」という現実は他人事ではありません。マルティン・ルターが「罪とは絶え間ない自己正当化」と定義しました。そして罪が神様と離れて、神と隣人を愛することから破れていることと考えるならば、どうでしょうか。


 世界の各国や地域では、新型コロナウィルスはアジア人がもたらしたものであり、アジア人差別に基づく暴力や暴言があり被害に遭われている方がいることが多数報道されていました。アジア人差別に関係する出来事ですが、イギリス在中のブレディみかこさんは、息子さんが地元の中学でこんな事を家に帰って嘆いていたそうです。「今日、教室を離れて、移動していたら階段ですれ違いざまに同級生の男子から『アジア人、コロナを広めるな』という嫌がらせの言葉をかけられた」というのです。「これはまたあまりにもストレートすぎるので、息子もさすがに引いたらしい。あまりにもひどいので、息子はしばらく呆然としてその場に立ちつくしてしまった・・・」と彼女は述べています。そして息子さんは「なんだか、もはやアジア人そのものがコロナウィルスそのものと同じようになったみたいだ」と嘆いているというのです。思春期の少年にとっては、深い心の傷になったことだろうと思います。


 フランスでは、アジア系の人々がインターネットで、「わたしはコロナウィルスではない」というハッシュタグを、広めているそうです。フランスでは地方の新聞社がコロナウィルスの感染拡大を「黄色い警報」と報じたため、批判の声があがり、その地方紙は謝罪したということです。イギリスで編集されているエコノミスト誌では表紙に、地球に中国国旗の柄のマスクをかぶせたイラストが使われ、「どこまで悪化していくか?」という見出しが出されたということです。いつもは政治的正しさに慎重なメディアという媒体が、そういうムードを産みだしたことは、子どもに影響を与えないわけがありません。


 それは、またエコノミスト誌の世界を覆う中国国旗の柄を例に考えても、中国が持つ世界的影響力が背景にあることでしょうか。世界的にシェアを持つ中国の言い知れぬ警戒感とコロナウィルスの感染によって世界的ダメージへの不安が融合したかのようなイメージです。私たちが、差別という構造を見るとき、無知というものに、恐れをたきつけて(焚き付けて)、混ぜ合わせれば、それはヘイト(=憎しみ)へと変化していきます。ある意味数学的に言えば、方程式のようなものがあると私は思うのです(無知+恐れの焚き付け+他者へ=憎しみ)。ウィルスの感染の拡大のニュースが絶え間なく、ニュースで流れているなか、まさに無知に恐れを炊きつける出来事がそこら中にあふれています。私たちが得体の知れない未知なるものが今回のウィルスならば、無知は人間が内面に有しているものです。特に人間は、未知なるものには弱い存在です。特に目には見えず、風のように忍び寄る存在であるならば、恐怖の対象となり、なおさらです。日本でも、明治時代に1879年には横浜・東京はじめ関東地方でもコレラが大流行しました(余談ですが、現在のJRお茶の水駅付近には神田山と呼ばれた丘があり、この頃、ニコライ堂が建設されていました)。患者は全国で約16万8000人、コレラによる死者は1879年だけで10万400人にも達しています。そのときの、当時の瓦版新聞には、コレラという病気を恐れて、人を襲う妖怪として表現しました。そこには顔が虎で、体が狼の姿の妖怪・化け物として描かれました。


 人を蝕む(むしばむ)未知なるものは、人の内面の無知へと移ります。情報が錯そうしていけば、この無知は形を残して、増幅していくかも知れません。その無知に、恐怖という火が炊きつけられたら、そこから、憎しみやパニックへと変貌していきます。世界を真の危機に陥れるのは、すなわち新型コロナウィルスをはるかに凌ぐ危険とは、恐れだけではありません。恐れだけでは警戒心や注意喚起を促す作用もあるので肯定的に捉えることもできるかもしれません。深刻なのが、恐れが無知と混ざり合い、そこから不安やパニックが派生して、そして憎しみが生まれることなのです。隣人を愛する神への招き、パウロが言う「愛がなければ無に等しい、もっとも大切なものは愛である」というみことばすら、私たちを引き離す力がまたこの現象にはあるのです。


 先ほどのイギリスでの話の続きですが、「学校にコロナを広めるな」といった同級生はその後、謝りに来たそうです。階段で起きたことを見ていた誰かが、彼に注意したとか。「さっきはひどいこと言ってごめん」と申し訳なさそうに謝ったということです。私たちはお互いの隔たりを和解する力もまた持っています。分裂から和解への道です。この少年も無知から恐れを炊きつけた大人たちの影響もまた受けてしまったひとりでしょうか。しかし、それに気づく機会も与えたのもまた子どもたちであり、人間でした。ならば、罪という、神様と私たちの隔たり・破れもまた修復できます。それをして下さったのが十字架に付けられたキリストでした。この受難週を迎えるにあたり、十字架に向かう主は私たちに、この不安に満ちた状況になりつつあるなか、無知と恐れをかけ合わせないように求められていると思うのです。(先ほど恐れは衛生面等の意味合いで肯定的に捉えることもできると述べました)しかし、一方で、私たちは、依然として未知なる恐怖や命を脅かされるという死の不安、恐れの力に翻弄され続けます。ラザロのような愛する者の死に対して、死という未だ知り尽くせない、悲しく恐れ極まりない出来事に無力であったマルタは、翻弄されました。そのような中で、一人取り残されてしまったとき、闇の力に勝利する復活の命が、主の存在が分からなくなります。しかし、そのような者たちに、主は、繰り返しみことばを語って下さっているのです。


 「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じるも者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」。


 この問いかけに対して、「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」と答え続けて行くなかで、主イエスによって与えられる死ぬことのない命を生きていくのです。神様と離れてしまったとしても尚、その破れが伴う罪に打ち勝った主がおられるのです。その主が共におられることはまた、復活した主と一つとなって生きていくこと、命である主と生きていくことです。そしてその命を生きていくことは、隣人への愛で生きていくことなのです。それを揺るがぬようにして下さるのは、主の力であり、みことばであり、そして私たちの祈りです。


 未知なるものから生まれる無知を、隣人への愛に変えていきましょう。ウィルスとの闘いのなか、隣人への愛に変えていくことは今だからこそ大切ではないでしょうか。世界中の隣人が私たちと同じような苦難に直面しています。そして恐れがあるからこそ、祈りをもって力を合わせて、この困難な時期を乗り越えていかなければなりません。世界中の諸教会が、この受難の季節を困難の中、祈りを合わせています。共に主に依り頼み、祈りましょう。そしてマルタのように信仰の告白をして頂ければ、幸いです。


望みの神が、信仰からくる あらゆる喜びと平安とを、あなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。 アーメン

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