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「あなたはキリストです」2021年9月12日 田中博二牧師

聖霊降臨後第16主日

聖書箇所:イザヤ書50章4-9a、ヤコブの手紙3章1-12、マルコの福音書8章27-38


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなた方にあるように。アーメン


マルコによる福音書を通してイエス・キリストのみ跡をたどっています。今日の箇所は、マルコ8:27~38のみことばが与えられています。マルコ福音書は16章までですので、大体半分のところです。そして実は、イエス様の

お働きもちょうど、中間点になり、今日の箇所から大きく変わっていくところとなります。これまでイエス様の出身地ガリラヤ地方での伝道活動が中心となっていました。しかし今や、イエス様のまなざしがご自身の進むべき十字架の

道へと向けられることになっていきます。

 

そして今日の個所は、フィリポ・カイザリヤでの信仰告白としても良く知られているところです。イエス様が新たにご自身の進むべき道を示されるのに当たって、ここフィリポ・カイザリヤの地はふさわしいものでした。当時、ユダヤの国はローマ帝国の領土でした。そこでローマ皇帝を記念する神殿を建てて、カイザリヤと呼んで、更にユダヤの領主でしたフィリポと合わせて、フィリポ・カイザリヤと名付けていました。そういったローマの権力が強く示され、

また他の異なった神々を祭っている地方において、イエス様の十字架の道が始まっていくのです。

 

今日の27節で、イエス様は弟子たちに向かって、「人々はわたしのことを何者だと言っているか」と問われます。弟子たちは「洗礼者ヨハネだ」と言っています。ほかにエリヤだと言う人もいれば、預言者の一人だと言う人もいますと答えます。イエス様が洗礼者ヨハネの後を継ぐ者だという評判はその地方一帯にあったようです。イエス様自身も、洗礼者ヨハネの働きについて評価されている個所もあります。また、当時のユダヤの人々にとっては、預言者の一人だという評判が一般的であったようです。そこでイエス様は12弟子たちに対して、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問われるのです。

 

このイエス様の問いは時間を超えて、今の私たち一人ひとりにも届いているのではないでしょうか。今、ここにいる私たち一人ひとりに対して、イエス様は直接、「あなたはわたしを何者だと言うのか」との問いを出しておられるのです。わたしたちにとって、イエスというお方は一体、どういうお方であるのか、と考えざるをえません。

学校で教えてくださる先生のように思っている方もおられることでしょう。また、病気をいやしてくださるお医者さんのような方だと思っている方もいます。或いは、つらいことや悲しいことを聞いてくれる友達としてのイエス様のことも思うでしょう。一人ひとり、自分にとってイエス様とは一体、どういうお方なのか、その問いが出されているのです。


この時、12弟子を代表してシモン・ペトロがお答えしています。ここでは、端的に「あなたはメシア、即ち、救い主、キリストです」とお答えするのです。

ペトロの答えは、まさに正しいものでした。メシア、救い主、キリストとして、イエス様は私たちのもとに姿を現わしてくださいました。12弟子の代表として、ペトロは正当にお答えするのです。ただ、しかし、果たしてペトロは自分

の語っていること、その内実を正しく、理解していたのでしょうか?

そうではない、と思います。それはこの後、イエス様からの叱責の言葉を受けているからです。イエス様は、ペトロを叱って「サタンよ、引き下がれ」と強い言葉をもってペトロを退けられます。サタン、つまずきを与える者として

ペトロをお叱りになられるのです。

 

このとき、イエス様はご自身の進むべき道、十字架の道について、第1回目の受難予告をお語りになります。ペトロを含め、12弟子に向かって、人の子つまりキリストとして進む道をお示しになります。31節にこうあります。

それからイエスは人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっていると弟子たちに教え始められた。

三度、イエス様はご自身の受難予告を行われますが、まず、最初の受難予告をなさいます。弟子たちは、どんなにか驚いたことでしょう。それまでイエス様はガリラヤの地で順調なお働きをなさっていました。すぐ前の5000人の

給食のような大きなみ業を行っていました。病気の人をいやし、神の国の教えをお語りになられていました。ユダヤの人々は、イエス様の素晴らしいみ業に驚き、一体、この人はこのようなことをどこで得たのだろう、とつぶやいた程

です。そのイエス様が多くの苦しみを受け、長老、祭司長たちから排斥されて殺されると預言なさるのです。ペトロを始め、12弟子全員が驚き、恐れたことでしょう。

 

ここで大切なことは、イエス様がペトロを始め、全ての弟子たちにお語り下さった次のみことばです。イエスはペトロをお叱りになり、そして「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」とお語りになられたことです。

まさしくペトロは人間のことしか考えてはいませんでした。神のことを思ってはいませんでした。しかし、それは当然なことかもしれません。ペトロが、どんなに頑張っても、どんなに努力しても、人間のことしか考えることが出来ないのは本当のことだと思います。「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」とは、まことの真理そのものでしょう。

ペトロがイエス様に向かって、「あなたはメシア、救い主、キリストです」とお答えしているのは本当のことです。しかし、先程も見ましたように、人間のことを思って、「あなたはキリストです」と言っているのです。

ペトロにとって、この時、キリスト、救い主とは、かってのダビデ王国を再び、もたらすお方、イスラエルの国を再建する王様としてのお姿でした。目に見える、手にとって触ることのできる王国をもたらすお方でした。他の弟子たちにとっても50歩100歩のことでしょう。

弟子たちにとって、イエス様の受難予告、すなわち「神のことを思うこと」は不可能であったと言えるのではないでしょうか。それはまた、私たちも同様であると思います。「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」

とお叱りの言葉を受けるのは、私たち一人ひとりであるのでしょう。

 

私たちは主のみことばの前に謙遜であり、砕かれたこころをもって、主に従っていくように招かれています。主イエスが進まれる救いの道をたどるように招かれています。その道は、イエス様が歩まれる十字架の道であり、そして三日目によみがえられた復活の道であります。終わりに、主イエスのみことばをいただいて、主の招きの内に進んで行きましょう。イエス様はこうお語りになります。34節35節

それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者はそれを失うが、わたしのため、また福音のために命

を失う者は、それを救うのである」。

イエス様が示してくださる十字架と復活の道を共に仰いでいきましょう。


どうか、恵みの神が信仰から来るあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを恵みにあふれさせてくださるように。  アーメン



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