聖霊降臨後第14主日
聖書箇所:エレミヤ書15章15-21節、ローマの信徒への手紙12章9-21節、マタイによる福音書16章21-28節
私は毎週1500キロ以上移動して牧師、病院聖職者、チャプレンの仕事をしている。もう時期この生活を
はじめて2年になろうとしている。西に東に駆け回り、出会った事のない人々の元に行く、
キリスト教会で通じる言動が全く通じない場に入っていく事はしんどい。けれども何故、私はそれでも
それを続けられるのかを自分に問うてみた。
それは水平の地理的移動距離以上に、深い深い人の心、命に触れる事ができるから、何時間だって、
何百キロだって移動するのだ。そこには綺麗事はない。人生の終わりの時期を過ごして居る人々の
口から出る言葉は怒りと悲しみに溢れている。
終わらない痛み、癒される事のない病の苦しみ。できる事ができなくなっていく人生へのやるせなさ。
そのような中でのうのうと生きている周りや家族への絶望的な怒り。時に墓場まで持って行かなければ
ならない過ちを語ってくれる人もいる。そして、それらの全ては真実の人の声である。
百の美しい言葉よりも、一つの悲しみの叫びに真実が宿る時がある。今日取り上げるペトロとイエスの
会話は聖書の中で最も悲しく、痛々しい。
しかもつい数日前にペトロはイエスに「あなたは生きる神の子、救い主です と語っていた。
都合の良い群衆はイエスの事を「過去の偉大な預言者」だのなんだのと都合よく祭りあげる中、ペトロだけが
「イエスよあなたこそ救い主です と最も美しい告白をした。
そう言われたイエスは本当の救い主の姿をペトロ、弟子たちに語る。それはイエスがもうじき、宗教者、
法律家、権力者たちに殺され、そしてその後に復活するという驚愕の事であった。
そんな破滅的な事を聞かされたペトロは混乱し、怒り、イエスを叱りつける。聖書の言葉を調べてみると、
これは子どもを叱りつける時などにも使う言葉である。つまりは問答無用、神の子、救い主イエスが十字架に
かかるなどという事はあってはならなかったのだ。
それがキリスト教の救いの中心であり、人間には理解できないものなのだ。そして絶対に成し遂げられなくてはならないものでもあった。イエスは自分は「必ずエリサレムに行き」と語っている。
だからそれを否定するペトロを究極的に叱りつける「退けサタン!あなたは神の事を思わず、人の事を思っている。
あなたは私を邪魔する者だ!」。
イエスとペトロが二度と修復できないほどすれ違い、二度と修復できない状況になってしまった。
けれども、私はこの瞬間が本当の人間の姿を描いていると思う。数日前にイエスはペトロに「私はあなた(岩)
の上に私の教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」と最大級の賛辞を送り、天国の鍵さえ渡した。
なのに数日後、イエスの十字架の死を巡って、これらの全てが台無しになってしまうほどの状況になる。
けれども私は教会の権威者、天の鍵を受け取るペトロが数日で悪魔扱いされるこの姿に真実を感じる。
人は強く、また激しく弱い。天使のようになるし、一瞬で悪魔のようになるのが人でもある。
クリスチャンであろうと誰であろうとも魔性を秘めている。人が人である以上、誰しもが二面性を持っている。
先に話した私が1,500キロ毎週移動し、人々に出会うのはその二面性の影の部分、
誰にも話せない闇を分ちあってくれる人々がいるからだ。そしてその瞬間こそが私には最も尊い時となる。
全ての光は闇からしか輝きでないからである。
イエスはペトロの不信仰、闇、弱さを全て理解し、いやだからこそ天の鍵を渡した。そしてペトロが
イエスを見失い、自己中心、悪魔的になってもその手からは鍵は滑り落ちる事はない。イエスがその鍵とペトロの
手を握っているからだ。
イエスの十字架の死、そしてそこからの復活させ否定してしまったペトロ。
のちのキリスト教の中心になる人物が、キリスト教の救いを否定してしまうのだ。この消し去りたい
一瞬はペトロの汚点であり、一生背負う十字架にもなった。けれどもそれで良いのだ。
汚れていなければイエスの弟子ではない。
過ちにをもっていなければイエスの弟子ではない。
十字架を背負い、それでもイエスについていくのが本当のイエスの弟子なのだから。