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「いつもあなたがたとともにいる」2020年6月7日

三位一体主日

聖書箇所:創世記1章1節―2章4a節、コリントの信徒への手紙二13章11-13節、マタイによる福音書28章16―20節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなた方にあるように。アーメン

 今日の第2の日課では、パウロがコリントの信徒たちに向けた手紙です。手紙の終わりの箇所、すなわち、結びの言葉はお互いに励まし合い、思いをひとつにしていくことを奨めて祝福のことばで締めくくっています。そこだけ見ますと、温かい励ましの言葉と見えます。しかし、その手前ではコリントの教会ではまったりとしていた雰囲気ではないことがうかがえます。「あなたがたを愛すれば愛するほど、わたしの方はますます愛されなくなるのでしょうか。わたしが負担をかけなかったとしても、悪賢くて、あなたがたからだまし取ったということになっています。」とか「わたしは心配しています。そちらに行ってみると、あなたがたがわたしの期待していたような人たちではなく、わたしの方もあなたがたの期待どおりの者ではない、ということにならないだろうか。争い、ねたみ、怒り、党派心、そしり、陰口、高慢、騒動などがあるのではないだろうか。・・・わたしは嘆き悲しむことになるのではないだろうか。」(12章20節~21節)などなどです。パウロがコリントの教会を再び訪ねることを延期したことが「約束を破ったパウロ」という疑念を生みました。さまざまな誤解と不満が入り乱れ、パウロを悲しませている状況になっていたのでした。

 パウロが訪問を延期したのは、自分が行くことでかえって悪い方向に教会が向かうのではないか、ということと、そうすることが相手のためであるという心遣いがあったのです。そのようなパウロの深い心遣いは相手に伝わらずに悪者扱いされてしまったのでした。

 ペンテコステを通して、教会が主によって打ちたてられました。それは教会はキリストの体であり、教会を通して、主とそこに繋がる兄弟姉妹が群れとしてひとつとされることでした。ぶどうの木のようにひとつとされているからこそ、神を愛して隣人を愛して互いに支え合い、愛し合うことが主のみ心でした。その喜びをかみしめて、主の救いはいつまでも、どこまでも約束されていることを宣べ伝えていくことでした。

 ですから、今日の福音は「大宣教命令」とも言われていますが、主が弟子たちを派遣するのです。主の救いはいつまでも、どこまでも約束されていることを宣べ伝えていくように示されました。復活した主がイースターからペンテコステまでを通して、弟子たちに求めたことが今日の福音の箇所なのです。それでも、復活した主に出会い、主を目の前にしながら、ひれ伏しつつ、疑う者もいたのです。心を開き、主のみ心を素直に受け入れている者は全員ではなかったのです。どこまでも主とのつながりに壁を作ろうとする人間の罪も記されています。それは、人間であるからこそでしょうか。教会が誕生しても、いつまでもお互いが愛し合い、美しい理想の姿で主の宣教に与ることができなかったのでした。その一つがコリントの教会でした。そのような教会の姿をパウロは嘆きました。それを予兆するかのように弟子たち人間の姿は主に対して「疑う」という形で描かれているのです。

 私たちの中でも自分が決断したり、相手に配慮したりしたことが、そのまま反映されるとは限りません。自分の意に反して、人はおのおの決めつけて、各自の判断で受けとります。そして誤解を招いてしまいます。皆さんもそのような経験をされてきた方がおられると思います。特に、パウロはそのようなつらい経験をたくさんしてきたのでした。自分の都合の良いように相手は理解してくれない、また物事は進んでくれない。うまくいかない物事といえば、特に、新型コロナウィルスの感染がまたぶり返しそうな報道も流れています。

 パウロは教会の兄弟姉妹との苦しみから、宣教の旅での苦しみなども含めた思いと経験を「苦難」という言葉で表現しました。今日のコリントの信徒への手紙の箇所が結びの言葉ならば、その手紙の始めの方では、「生きる望みさえ失ってしまいました」と述べています(1章8節)。「クリスチャンを辞めました」ではなくて、それどころか生きる望みも失いかけたのです。それほどまでに彼は追い詰められていたのです。それでもパウロは自分がいくら否定されてもこう言うのです。

   「…あなたがたの間で宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、『然り』 と同時に『否』となったような方ではありません。この

  方においては『然り』だけが実現したのです。神の約束は、ことごとくこの方において『然り』となったからです。それで、わたし

  たちは神をたたえるため、この方を通して『アーメン』と唱えます。」(1章19~20節)

 人と人との関係だけでなく、この世の中で自分の良いような形にならなくても、望むような形にならなくても、「然り」と言えるような結果と自分の悟りを手にすることができるキリスト者の強さはあるのです。それはキリストにあるとパウロは言うのです。それは今日の福音で主がこう約束されたからでした。

 「…わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:20b)

 パウロも「世の終わり」と感じるほど、人生の生きる力を失いかけました。それでもなお、彼は宣教を続けて、コリントに3か月滞在して、エルサレムまで献金を携えて旅を続けて、最後はローマに向かったのです。「わたしは弱いときにこそ、強いのだ」(2コリ12:10b)と言えたのは、苦難の前でも「然り」と言えたのは、キリストが共におられて、神様の深い愛に抱かれて、聖霊の働きと交わりがあったからこそでした。パウロは生きる源を与えてくださったに主への感謝を、今日のコリントの信徒への手紙の最後に祝福の言葉としてこう記しているのです。

 「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。」

 新型コロナウィルスの感染拡大がいったん止んだかと思いきや、「東京アラート」が先日、発動されてしまいました。ニュースも見ても、暗いものが多いです。皆さんも疲れ、「またコロナか」、「また次はこんな状況か…」とそれぞれ感じておられると思います。心の内で「だめだ、否否…」とつぶやくかも知れません。しかし、「否」という現状でも、そうではなく、事の成り行きがどうであれ「然り、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と主は私たちに言うのです。共におられてそう言われるのです。最後はそのようにしてくださる主がおられます。その主の愛と約束と、そして主が備えてくださる明日に感謝して、共に「然り、アーメン」とほめたたえていきましょう。

 パウロの祝福を致します。

主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。

アーメン

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