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「さあ、今年一年分の懺悔をしてもらおうか」2022年12月4日 関野和寛牧師

待降節第2主日

聖書日課:イザヤ書11章1-10節、ローマの信徒への手紙15章4-13節、マタイによる福音書3章1-12節


アメリカの病院で病院聖職者チャプレンをしていた時に外国人、かつスキルのない私はおどおどしていた。

その時に私を支えてくれたのは首から下げていた名前入りのバッジである。自分の役職、名前、顔写真入りのバッジを与えられた日、上司がこう言った「そのバッジがあればあなたたちはこの病院中、どのドアだって開けられる。 手術室、コロナ室、精神科病棟、産婦人科、呼ばれた場所に行き、そのバッジで扉を開けて助けを求めている

人に出会ってきなさい!」。


その日から、首に下げたバッジは私の身分証であり、かつ通行手形になった。だがそんなある日、一つの不思議な

扉が病院のメインホールにある事に気がついた。見ると「ドクターズラウンジ(医師控え室)」と書いてある。

その扉が開くたびに医師たちがコーヒー片手にリンゴやチョコマフィンなどをかじりながら出てくるのだ。


当然と言えば当然かもしれないが、医師の為の特別室であり、医師はいつでも無料でコーヒーや食べ物がそこで提供されるのだ。私は聖職者チャプレンバッジでドクターズラウンジの電子錠を開けようと試みた。うんともすんとも言わない。「病院中の全てのドアが開けられる」と言われていたバッジでも唯一開かないのがドクターズラウンジだった。

やはり病院の中で医師は絶対であり、他の従業員とは全く違う存在であるのだ。


立場や身分は人を作り上げ高め、成長をさせてくれる時もある。

だがそれは簡単に人を高慢にさせる。私はこれまで15年間毎日「牧師」「先生」と呼ばれ続けてきた。知らぬ知らぬうちにお山の大将、胃の中のかわずになっていた。今年はじめてそのような肩書きが通用しない一般の病院で働きはじめ、やっとその事に気がつけた。


時に色々な肩書きやバッジをつけた人と出会う。弁護士、医師、オリンピック委員会のバッジや免許を持ち合わせた人と出会うと恐縮する。名刺を持てば肩書きにばかり目が行ってしまう。だが、ある時この上なく強烈な名刺を見た。大学教授だったと思うが、肩書きは「単なるおっさん」と書かれていたのだ。見事だった。 人は神の前で、そして人の前で唯の人、そして一人の罪人になれる時こそ「救い」に出会える。


クリスマスを前には必洗礼者ヨハネの物語を読む。

ヨハネはやって来る救い主、イエスを迎える為に必要な事は悔い改めでありざんげだと激しく説いた。

もちろんそれは犯罪行為、もしくは他者を圧迫したり、搾取した事などの日常的な事柄の反省を迫るものである。


だが、究極の悔い改めは、自分の過去の行動を振り返り、反省するというような事柄ではない。そうではなく、

自身の価値観を全て投げ打ち、全く新しい価値で人、物、神を見ろというコペルニクス的転回を求めるものなのだ。

その新しい価値観は人類の歴史に常につきまとう、ヒエラルキー階級さえもひっくりかえそうとするのだ。


そして大転換の先頭にヨハネは立っていた。本来であればヨハネは祭司の家出身であるから、都の神殿にて祭司のガウンに身を包み、規定に従って礼拝を行い民を指導する立場にあった。


由緒正しき血筋であり、身分も補償され、庶民からは尊敬される立場である。またその分、伝統的家庭が故の柵、 また政治家たちとの癒着などもあったであろう。


だがヨハネはそれらの全てをかなぐり捨てて、誰も近寄らない荒野、砂地で濁ったヨルダン川の横で世界に向けてメッセージを発信しはじめたのだ。祭司の服を脱ぎ捨てラクダの毛ごろもを。神殿の倉庫には食べ物が豊にある。 だがその安定して生活から抜け出し、荒野で野宿をし、イナゴや野の花から蜜をとって生活をし始めたのだ。 異様な姿である。


だがその異様さが逆に人々を荒野に集めた。「あの祭司の家のヨハネがヨルダン川が流れる荒野で

人々に洗礼を授け、『救い主がやって来る!』と辻説法をしているらしい。聴きに行ってみよう」と

様々な場所から労働者、罪人、兵士、宗教者たちが集まった。


そしてヨハネの凄まじい所は忖度を一切しない所だ。救いの知らせを届けるメッセンジャーは目の前にいる

宗教者を批判する。「お前らアブラハムの血筋、家柄、職業に守られ、その中で自分は清く正しく救われているとでも思っているんだろう?勘違いするな!神は石ころからだってアブラハムの子孫をつくれるのだ!」と語り、 聖なる民、上層階級に鎮座し続けた彼らを「マムシの子!」と言い放ったのである。

もちろんこの言動が度を過ぎ、ヨハネは捉えられ殺される。


それでもヨハネは一声は時代を超えて人々の命を照らす。ヨハネは真っ先に宗教者たち、権威者たちの傲慢さを

批判し、既に救われているという宗教的確証と約束さえも無価値だと言い放った。


ヨハネの一声は高くそびえる山や丘を崩し、そしてえぐられくぼんでいた谷を埋め、でこぼこだった道をまっすぐにするものであった。そしてその声はそこに居た労働者、一般庶民、罪人にこそ響いた。彼らは人の前に誇れる事はない。もちろん神の前にも。そればかりが貧しさ、過去の罪、病、それらは神から祝福されていない罪の結果とさえされていた。


ヨハネの一声はそのような宗教的理解、伝統、人々の価値を破壊しにかかったのだ。豊さと救いの頂点に降臨する宗教者を引きづり下ろし、徹底的に低くされた者たちの谷を埋めようとした。

つまりは「神の前には宗教者も政治家も労働者も前科者も病人も、皆、人であり、罪人なのだ」と。 そして、そこにこそ救い主であり人間でもあるイエスがやってくるのだとヨハネは叫んだのである。


この1年、あなたは誰の声を聞き生きて来ただろうか。

人が人の地位や能力を決め、そしてそのような価値観の中の柵の中であなたは苦しんではいないだろうか。

人の評価の声、そして自分を肯定できず、自身を否定する声を聞き続ける日々、それはまさに渇いた荒野。

でもその荒野でこそ、神の一声を聞けるのだ。あなたの価値は神が決めるもの。そしてあなたは

この上なく尊いのだと。

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