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「わたしの主、わたしの神」2021年4月11日 田中博二牧師

復活節第2主日

聖書箇所:使徒言行録4章32-35、ヨハネの手紙一1章1-2章2、ヨハネの福音書20章19-31


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなた方にあるように。アーメン


私たちは今、主の復活を共に喜び、讃美する復活節の季節を過ごしています。このときは、光まぶしい春の季節の中で、次々に咲く花々に目を奪われる時期でもあります。教会の暦では、ヨハネ福音書を通してイースターの出来事を

学んでいますが、今日は20章19節以下のみことばが与えられています。


「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちは自分たちの家に集まっていた」というのです。

弟子たちは家の戸に鍵をして一緒に集まっていました。その日、とはイエス様が復活されたその日、マグダラのマリアが弟子たちに、「わたしは主を見ました」と告げた、その日ということです。マリアの知らせを聞いても、弟子たちはユダヤの長老、祭司長たちを恐れて、家に鍵をかけて閉じこもっていました。マグダラのマリアが告げたことを信じることが出来ない程、恐れの念に捕らわれていたのでしょう。


そこへ復活のイエスがおいでになり、彼らの真ん中に立って「あなたがたに平和があるように」とお語りになられます。しっかり家の戸に鍵をして、外から入ってこれないようになっていたのに、復活のイエス様は「あなたがたに平和があるように」と弟子たちを祝福して下さいました。この主のおことばは、当時の挨拶でも用いられていたシャローム、平安がありますようにという言葉です。いつも同じように、復活のイエスは弟子たちを迎え、こころからの祝福

を与えてくださいます。「あなたがたに平和があるように」シャロームとの言葉を受けて、弟子たちはどんなか喜び、驚いたことでしょうか。復活の主が彼らの真ん中に立って祝福してくださっておられるのです。


ここで復活の主が弟子たちに「あなたがたに平和があるように」と語られた平和とは、イエス様みずからが約束してくださった平和であり、この世が与えるようなものではないと語られたものです。ヨハネ福音書14章で、「わたし

は平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。こころを騒がせるな。おびえるな」と語ってくださいました。復活の主がお与えくださる、まことの平和、永遠の命に至る平和ということです。イエス様は今日の聖書の箇所で、弟子たちに対して、三度、「あなたがたに平和があるように」とお語りになられるのです。


このあと、主は彼らにご自身の手とわき腹をお見せになられます。その主のわき腹には、ローマの番兵によって槍でさされた傷跡があり、手には釘でさされた傷跡があったことでしょう。まことに、十字架の死より、よみがえられた

み子イエス・キリストのお姿がそこにありました。マグダラのマリアが告げたように、彼らもまた、わたしは主を見したと証しする者へ変えられるのです。家に鍵をして閉じこもっていた弟子たちは少しづつ、主の復活を周りの人々へ伝える者へと変えられていくのです。


さて、24節以下に12弟子の一人、トマスが登場してきます。トマスは、どういう訳か日曜日の夕べ、弟子たちと一緒ではありませんでした。そこで、弟子たちが「わたしたちは主を見ました」と告げても、彼らの知らせを信じることができません。トマスはこう言います。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」。トマスの強いことばです。

トマスはディディモ、ふたごというあだ名で呼ばれていました。信じる者と疑う者とのふたつのこころの間で揺れ動く心理を表わしています。トマスはまさに、自分の目で見、自分の手でさわってみなければ信じないという、私たち

人間の姿を代表する者でしょう。


26節には、その後のトマスについて、こうあります。

「さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあった」というのです。八日の後、すなわち今日、イースターの一週間後の日曜日、弟子たちがまた家に鍵をして一緒に集まっていました。

トマスもこのとき、弟子たちと一緒にいたというのです。トマスは先週、どうしてか一緒にいなかったということもあって、変にこころを閉ざし、かたくなな態度をとっています。しかし、トマスは一週間後、一緒にいました。弟子たちのところに戻ってきているのです。離れて一人ぽっちになっていないのです。

これは大切なことです。「この目で見、この指で触れなければ決して信じない」と言い張るトマスを仲間たちは受け入れています。誰でも迷うときはあります。ちょっとしたことでつまずいてしまうことがあります。こころが冷えて、

かたくなになる時もあります。でも迷いがあってもなお、仲間のところに戻ってくる。礼拝する友と一緒にいる。そのトマスを仲間の者もまた、温かく受け入れている。友のだれかの何気ない呼びかけがあったかもしれません。このようなトマスと仲間との姿を覚えていたいと思うのです。


その礼拝の場へ復活のイエス様がおいでになります。27節にこうあります。

「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手をのばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスはこの時、弟子たちの中で一番、迷っていました。一番、戸惑っていました。そのトマスをめざして、復活のイエス様がおいでなり、声をおかけになります。主イエスの強いお言葉です。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と教えてくださいます。

ここでイエス様がお語りくださった「あなたの指をここに当てなさい。またあなたの手をのばし、わたしのわき腹に手を入れなさい」ということばには、イエス様がもう一度、あの十字架の痛みと苦しみを体験しても良いというお覚

悟があるのだということを思わされます。

 

疑いまどうトマスのために、あの十字架の痛みを再び繰り返しても良いとまで、お語りくださる主イエス・キリストのお姿がここにあるというのです。それほど深いいつくしみをトマスに、そして弟子たちに、また私たちに注いでくださるのだというのです。トマスは主イエスの激しい招きに対して思わず「わが主、わが神」と声を上げました。28節にこうあります。トマスは答えて「わたしの主、わたしの神よ」と言った。

ほかに何も言うことはありませんでした。万感の思いをこめて「わが主、わが神よ」と主を仰いだのです。


この「わたしの主、わたしの神よ」との叫びがヨハネ福音書の頂点であると言った人がいます。疑いの人トマスの言葉が、ヨハネ福音書全体での頂点であるということは本当に意味深いことです。

主イエス・キリストは疑い、迷う者をも受け入れ、招き入れてくださるお方です。私たちの信仰の中心は、自分の決心の強さでも、自分自身の強さでも、ありません。イエス・キリストの慈しみの招きの確かさにあるのです。


人知ではとうていはかり知ることの出来ない神の平安があなたがたのこころと思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

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