top of page

「キリストに生きる」2020年6月21日

聖霊降臨後第3主日

聖書箇所:エレミヤ書20章7-13節、ローマの信徒への手紙6章1b-11節、マタイによる福音書10章24-39節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなた方にあるように。アーメン

 

 ドイツのアウグスブルク大学聖書神学の教授でパウロ研究をしているペトラ・フォン・ゲミュンデン氏は、2012年の聖書フォーラムでパウロは自分が暗殺される恐怖のなかにいたのではないか、という学説を唱えました。それは今日の第2の日課では、パウロがローマの信徒たちに向けた手紙の少しあとの箇所でこう記されているからでした。

 「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」                                          (ローマの信徒への手紙8章35節)

 この「剣」という言葉にペトラ氏は注目して先ほどのような結論を述べました。私もそのフォーラムで講演を聴いていましたが、長く難しいので途中の論説は割愛します。しかし、使徒言行録を読んでみますと、納得もできます。それはパウロが都エルサレムで、キリストの証をしたときのことです。そこで彼は捕まります。そのような状況の中、パウロの命を奪おうとする、次のような恐ろしい箇所が記されているのです。

   夜が明けると、ユダヤ人たちは陰謀をたくらみ、パウロを殺すまでは飲み食いしないという誓いを立てた。このたくらみに加わっ

  た者は、四十人以上もいた。 彼らは、祭 司長たちや長老たちのところへ行って、こう言った。「わたしたちは、パウロを殺すまで

  は何も食べないと、固く誓いました。ですから今、パウロについてもっと詳しく調べるという口実を設けて、彼をあなたがたのとこ

  ろへ連れて来るように、最高法院と組んで千人隊長に願い出てください。わたしたちは、彼がここへ来る前に殺してしまう手はずを

  整えています。」                                      (使徒言行録23章12~15節)

 特に、当時のユダヤはローマ帝国の支配下にありました。そのような中で、過激なグループが存在していたのでした。短めの剣で、夜な夜な闇に紛れて、パトロールをしているローマ軍の兵士を殺害する事件も起きていたようです。熱心党というグループの一派とも言われています。おそらく私はただの素人がそんなことをするわけがない。誓いを立てて、人を殺める行為と計画を練ることのできる連中ですから、暗殺のプロ集団なのではないか、と思います。説教の場で話すにはおどろおどろしいことです。そんな者たちがパウロを狙っていたのです。

 皆さんは江戸時代の「忠臣蔵」の話をご存じだと思います。吉良上野介を討ち取るために、47人の侍が主君の仇討ちをする話です。そんな話を私は想起しますが、パウロの命を狙った彼らも四十七士に似たような正義感に満ちていたのでしょうか。自己を正当化する人間の罪も垣間見えますが、四十七士と比べなくても、誓いを立てて、強い殺意を抱いた者たちがパウロを襲う計画を具体的に練っていたのは確かです。そういう意味でその強い執念と恐ろしさは共通しています。

 先日もパウロのみ言葉を皆さんでお読みしました。先週の箇所ではパウロは苦難した大変な思いを振り返り、彼なりに確かに見出して、こう言うのです。

 「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」                                        (ローマの信徒への手紙5章3節)

 しかし、パウロはこれから先、エルサレムに献金を携えて向かうことは、また同時に剣で命を落とすかもしれない。命を奪われるかも知れない恐怖があったとしたらどうでしょうか。日々、常に激しい緊張と恐怖に心を掴まれる。心は水を吸ったように重くなり、宣教の足も重くなったことでしょうか。夜も眠れないほどの苦悩の日々を過ごしていたのかも知れません。そのような心境の中でもパウロは希望を抱き続けたのです。理由もなく楽観視していたわけでもなく、無気力に死を受け入れていたわけでもなかったのでした。パウロの宣教を支えたもの。それは希望だったのです。そのような希望を抱く根拠はどこにあったのでしょうか?

 先週も述べましたが、パウロはコリントの信徒たちから心外な態度を見せられました。人が人とのかかわりがある限り、相手との衝突は避けられませんし、また悔しく悲しい思いもします。悪口を言われ、馬鹿にされて、また騒動に巻き込まれるような状況に置かれていたのでした。生きる力さえ失ったとコリントの信徒への手紙でも赤裸々に語っています。その手紙を書いた後も、コリントの教会を彼は訪ねました。しかし、おそらく予想していた通りに彼は罵られたことが聖書に記されています(使徒言行録18章6節)。

 コリントの教会の決して理想通りではない現実。生きる力さえ失った経験。宣教の旅での言い尽くせない苦しみ。そして先ほどのようにこれから死が待ち受けようとしていたのです。

そのような中、パウロは主にこう言われるのです。

 「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。私があなたと共にいる。」                (使徒言行録18章9節以下)

 パウロの希望とは神様の愛はいつも私たちに与えられて、そして救いの約束が絶対であることに信頼していく喜びでした。その主の愛とは、主が励ましつつ、宣教を続けていく力を与えられていたものでした。そしていつも主が彼を守っていたのです。先ほどのように主に励まされたあと、パウロはコリントでローマの信徒たちに向けて手紙を書きます。「自分を待ち受けるのはどのような苦しみか、危険か、それは剣なのか?しかし、だれもキリストの愛から引き離すことはできない。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものである。」とローマの信徒への手紙の中で力強く語るのです。そのように語れたのは、主が世の終わりまでいつまでも共にいて下さったからでした。そして「恐れるな」、と言ってくださったからでした。どのような状況でも、主が共にいて下さる。キリストと共に生きている(ローマの信徒への手紙6章8節)。キリストに生きる。だからこそ、恐れることなくこれからも歩んでいくための明日を、主が私たちに備えてくださるのです。

 今日の福音は、12人の弟子たちを派遣され、弟子たちに忠告される場面です。その場面でも弟子たちにも同じように言われます。

「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。…恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」                                         (マタイによる福音書10章28節、31節)

 少し前の箇所の6章で、主は「明日のことを思い悩むな」と言われました。そして「空の鳥を見なさい。あなたがたは鳥よりも価値あるものではないか」と言われます。主イエスは身近なものを譬えにして、思い悩むことなく、そして恐れることのないように重ねて勇気づけてくださいました。私たちは主イエスが受ける迫害やパウロのような暗殺の恐怖まではありません。しかし、日常の生活も含めて、あらゆるところで心細く孤独で、言い知れぬ不安があるかもしれません。明日のこと、将来のことも見えません。だから不安が少しずつ塵のように積り、恐れと紙一重になりそうになる。そんな気持ちになるかも知れません。しかし、いつ来るかもしれない不測の情況における私たちの心境を、主はすでにご存じなのです。

 今日の福音で宣教のために村々に派遣される弟子たちに向けて、パウロに向けて、そして私たちに向けて今日改めて主は言われるのです。

 「恐れるな。明日のことは思い悩むな。語り続けよ。黙っているな。私があなたと共にいる。」

 新型コロナウィルスの感染の懸念や経済の情況の中で、私たちはまた、おのおのの課題や問題を抱えて生活をしていますが、それでも主を賛美して行きましょう。祈りと感謝の言葉、信仰の告白を唱えて、十字架を仰ぎ見て、一言でも「わが主よ」と黙することなく賛美してきましょう。なぜなら、主が私たちの重荷を共に担い、「恐れるな」と励まして守ってくださっているからです。それは既にキリストに生きていることです。そのような生き方に既に私たちは置かれているのです。パウロの歩みがそれを証してくれています。そのことを覚えて、今日も明日もキリストと共に歩んで行きましょう。

望みの神が、信仰からくる あらゆる喜びと平安とを、あなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

bottom of page