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「キリストを着る」2020年9月13日

聖霊降臨後第15主日

聖書箇所:創世記50章15-21節、ローマの信徒への手紙14章1-12節、マタイによる福音書18章21-35節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなた方にあるように。アーメン

 アメリカ公民権運動の指導者の一人にマーテン・ルーサーキング牧師がいました。アメリカのバプテスト教会の牧師です。200年以上の長きにわたり、差別に苦しんできたアメリカの黒人の市民権を獲得すべく、尽力しました。このことでノーベル平和賞を受賞しましたが、1968年に暗殺されます。

 1986年に、キング牧師の妻が、西南学院の創立70周年記念の講演会のために、福岡に来ました。その講演の中で彼女が強調していたことは、自由の闘いのために、いつもキング牧師が言っていたことであり、それは「敵を愛する」というキリスト教精神が本当に大事である、ということでした。そのころは、アメリカがリビアを爆撃した直後のことでキング夫人は次のように言っています。

 「敵を愛してごらんなさい。そうしたら憎悪しか返ってきません。でも私たちは、それでも神様からの愛をいただいて、その敵を愛し

ていくのです。」

 そしてリビアへの爆撃に関しては次のように言いました。

   あんなやり方で問題が解決できるはずがない、外交のレベルにおいても、政治のレベルにおいても、敵を愛するということを私た

  ちは徹底して追及しなければならない。政治的なことがらは、たしかに理想主義だけでは解決しません。しかし、敵を愛するという

  精神をすべての根本におかなければ、何事も解決しないでしょう。

         (青野太潮「太陽のごとき神の愛」『十字架につけられ給ひしままなるキリスト』コイノニア社 2007年 22頁。)

 私たちは神様から分け隔てない愛を常に受けています。今もそうです。そして、主イエスは今日の福音だいぶ前の箇所で5章44節から「 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」と言われつつ、「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイによる福音書5章48節)と言っています。聖書の原語では文法は未来形で記されています。「なりなさい」というより「完全な者であろう」と記されているのです。「頑張って、頑張って、そうなりなさい」という命令的にではないのです。あなた方は神に愛されている。その愛をたくさん受けているから、そこから他者にそれを示していける。そういう者に少しずつ近づいていけるであろう。そう主は言うのです。愛されているから、私たちがかつて心のなかでさえも、犯した罪も含めてすべて赦される。だから、わずかでもそう示していけるのではないか、と主は言われるのです。

 そして、パウロは先週の第2の日課で「主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。」と言うのです。

                                             (ローマの信徒への手紙13章14節)

 主イエス・キリストを身にまとう…。なんだか面白い表現です。「主が共におられる」という表現は私もよく用いますが、「服のように身にまとう」という表現をパウロは用いています。パウロは複数回もその表現を使っています。しかし、服のように脱いだり、着たり、私たちの気持ちでそうできるのではないのです。

 キリストはぶどうの木、私たちはその枝です。主とひとつです。分かりやすい譬えなので、私は好きで、よく用いています。私たちが誰をいくら憎んでいようと、恨みの淵に沈んでいようと、キリストとひとつであり、主の愛にしっかりと包まれているのです。パウロは「キリストを身にまといなさい」と自発的に奨めていますが、そうする前に既に私たちはキリストに包まれているのです。キリストという服を着せていただいている。その見えないポケットに救いの約束という保証書まで入っている、というイメージでしょうか。そして今日の福音では主イエスは、罪という借金はすべて帳消しにしてくださる主がおられる。だから相手の罪を裁いてはならないことを、譬えを用いて説明されています。その前に主はこう言われるのです。

 「イエスは言われた。『あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。』」

                                              (マタイによる福音書18章22節)

 借金を帳消しにしてくださるように、神様は私たちを深い愛で包んでくださっている。それにもかかわらず、相手を7の70倍まで赦せない私たち…。それは恨みと孤独に心を支配され、無意識に神様と離れて行こうとしている状態です。自分ひとりだけの闇の世界に孤立して乗り残されているかのようです。それをパウロは今日の第2の日課でこう言うのです。

   わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きると

  すれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のもので

  す。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。それなのに、なぜあなたは、自分

  の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。こう書いてあります。

  主は言われる。『わたしは生きている。すべてのひざはわたしの前にかがみ、/すべての舌が神をほめたたえる』と。」

  それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです。

                                           (ローマの信徒への手紙14章7~12節)

 パウロはキリストを身にまとい、キリストとひとつになりながらも、問うのです。


「なぜ裁くのですか?」

「主のみ前に立つとき、どう申し述べるのですか?」


 いま私たちも身にまとっているのは、キリストです。主が捕まり、十字架につけられるまで、暴力を受けて、嘲り笑われました。死が迫る中、想像を絶する痛みと苦しみのなかで、主イエスはローマ兵たちに対して赦しを神様にこう求めました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカによる福音書23章34節)。私たちは、そのようなキリストをまとい、毎日主のみ前に立っているのです。

 恵みは神様から一方的に与えられています。その恵みとは、神様からの赦し愛や救い、永遠の命もすべて含まれています。その獲得のための努力や頑張りを強調していません。しかし、自分の感情と罪に身を任せていいとは示されていません。むしろ、パウロのように、こう改めて示されるのです。


 「 従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決

 心しなさい。」と。

 今、アメリカでは黒人差別の抗議デモで多数の死傷者を出しています。キング牧師のいた時代のようです。デモ隊同士で、乱闘になり、銃で人が亡くなる事件まで起きました。その光景を主はどうご覧になっているでしょうか。迫害した者、それに抗議した者、そして憎しみと正義が入り乱れて、血が流れている場面を報道で目にしました。

 今日も主はご覧になっていることでしょう。私たちに対しても、かつて相手を赦せない時にも、傍らで主はご覧になっていたことでしょう。その中でも報道のなかでは、デモの参加者で対立している同士で互いに瞬間的に和解している場面や、それを懸命に呼びかけている人の姿もありました。かつてのアメリカでは、混乱のなかでも、どのようなときにも主がおられることに目を反らずして非暴力運動を続けてきた人々もいたのです。

 敵を愛せない…。でもその果てしない相手への隔たりを埋めるために、主は来られました。そして、私たちは自分の意志とは関係なく、主とひとつとされています。キリストを着ているのです。だから、私たちが祈れないときには、主が自ら私たちと他者のために祈ってくださるのです。「敵を赦し、愛す。そんなの普通では無理です…」という私たちが陥りやすい失意はいつも存在します。しかし、み言葉に耳を傾けて祈ることで、祈り続けていくことで、一歩ずつ愛を取り戻せていけるように導かれてきた人々も確かにいたのです。キング牧師や夫人、それに賛同していった大勢の人々でした。

 私たちが主とひとつとなり、救いと恵みを与えられているという福音。その福音を受け止める中でも、常に生まれる私たちの心の葛藤をも主はよくご存じです。先週と同じように主はかつても、そして今日もこう言われるのです。いやこれからもなお一層、主は私たちに求められるのです。

立ち帰れ、立ち帰れ。

相手を赦して、互いに愛し合いなさい。その赦せないという、高い心の壁を前にしても、祈りなさい。どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしはそれをかなえる。

二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。

そして私は、あなた方とともにいる。

望みの神が、信仰からくる あらゆる喜びと平安とを、あなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。 アーメン 

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