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「クリスマスの祝い方」2022年12月25日 関野和寛牧師

クリスマス主日

聖書箇所:イザヤ書52章7-10節、ヘブライ人への手紙1章1-4節、ルカによる福音書‬ ‭2‬:‭10‬-‭12


混乱の1年が過ぎようとする中での年の瀬のクリスマス。だが聖書を読めば、混乱と不安は今に始まったこと

ではない。覇権を広げていたローマ帝国は、皇帝アウグストゥスの自分達が支配する地域の人口を調べ上げる為に

初めての住民登録を行った。


国政調査のようであり、税金を徴収し兵役につける者たちの人数を把握する為の政策であろう。

今日の政治と同じだ。


しかもその方法は原始的であった。各々自分の生まれ故郷に戻り各人の出生を証明し登録を行わなくてはならなかったのだ。この作業には数年を要したとも言われる。


属国の住民たちは支配国の命令により、強制的にこの登録を行わなくてはならないのだ。

皇帝アウグストゥスの時代からの200年はパクス ロマーナ「平和の時代」と呼ばれた。

だが支配されている側の庶民からすれば、住民登録の命令は「次は何をされるのか?」

と不安を掻き立てられる声であったのではないか。


ヨセフとマリアはナザレからベツレヘムまで100km以上の道のりを旅して行く。

しかもヨセフとマリアはまだ結婚していない。更にはマリアのお腹の中には到底誰も信じない、

聖霊によって宿ったと言われるイエスがいるのだ。何をどうやって登録するのか。


不安な社会情勢の中、一個人としても存在を消されかねない絶対的危機の中に、婚約中の二人は旅に出るのだ。

だからこそ天使はヨセフ、マリアそれぞれに「恐るな」と声をかけたのだ。


そしてこのイエスの誕生の知らせを聴いたのは夜通し羊の番をしていた羊飼いたちであった。

羊飼いは聖書の中で二番目に登場する最古の職業のうちの一つである。彼らは家を持たず牧草地を渡り旅をする

遊牧民であり、過酷な肉体労働者でもある。


何十、何百と家畜を飼っているのであれば、自分の故郷に住民登録になどいけるはずがない。

そればかりかローマ帝国強化の為に税として自分たちの財である家畜を取られてしまう可能性だってあるのだ。


だが天使は彼らに現れ告げる「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。 今日ダビデの町で、

あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。 あなたがたは、布にくるまって

飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」

‭‭(ルカによる福音書‬ ‭2‬:‭10‬-‭12)


救いの力は帝国支配から来るのではない。神殿、宗教から教えられるものでもない。

そうでなく「あなたたちが毎日使っている飼い葉桶の中にはじまっている!」と天使は伝えるのだ。


不穏な世界を支配するのは皇帝ではなければ、その為の住民登録でもない。更には約束されていた救い主は自分たちが立ち入る事のできない神殿ではない。そうではなくて、自分たちが普段家畜を休ませる洞穴、かつ救い主は家畜が餌を食べる桶の中にいると言う。なんという驚きだろうか。


絶対的にあり得ない事を羊飼いたちは聞き、そして自分たちの日常のど真ん中、飼い葉桶の中に救い主を見るのだ。これは2000年にわたるルカ福音書からの世界への警鐘である。


どのような時代、どのような権力、宗教的力によってでも平和も救いも来ない。そこに手を伸ばす事さえできないほど小さな人の生活の中にこそイエスはやってくるのだと。


イエスが生まれても羊飼いたちは別に裕福になった訳ではない。抑圧から解放された訳でもない。だがこの夜、

クリスマスの前と後では決定的な違いがある。羊飼いたちは決定的に選ばれたのだ。

貧しい労働者でもなんでもない、彼らこそ最初のイエス訪問者とされたのだ。

そして天使は彼らにも言葉を授けた「恐るな」と。


これはこの夜に一度きり響いた天使の声ではない。そうではなく今日を生きる全ての人に伝えられた命の声なのだ。私たちは時代の声に恐れと不安を抱く。羊飼いたちだってこの後に何度も苦しみを経験する。けれどもそれを超える喜びを神は必ず与える。それがクリスマスの約束なのではないだろうか。

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