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「シメオンの信仰」2020年12月27日 田中博二牧師

降誕後第1主日

聖書箇所:イザヤ書61章10-62章3、ガラテヤの信徒への手紙4章4-7、ルカの福音書2章22-40


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなた方にあるように。アーメン


先週20日、私たちはクリスマス主日礼拝を守り、御子イエスさまの誕生をお祝いしました。そして24日イブの日の夕方、御子のご誕生を覚え、祈りのときを過ごしました。私たちの暮らすこの世界に神のみ子イエスさまをお迎え

することが出来る喜びを共有することができました。そして今日は2020年の最終主日の礼拝を守っています。ルカによる福音書2:22以下でヨセフとマリア、幼子イエスの家族3人でエルサレムの神殿へと礼拝を捧げられる出来

事が示されているのです。これからしばらくイエスさまのご生涯について聖書の出来事をたどっていくことになります。この学びは2021年4月のイースターにてひとつの区切りを迎えることになっていきます。


今日の福音書の箇所で、興味深いところがあります。それは日課の一番終わりの節、2章40節です。そこにはこう記されています。「幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた」。イエスさまは、私たちの住む

世界のなかで成長の足跡を示され、ひとりの少年としてたくましく成長されて行かれた様子がうかがえるのです。イエスさまのこども時代についてはあまり、聖書の記述はありませんが、その中の数少ない場面からみて、イエスさまが当時の少年として普通の姿を取って成長されていかれたことが分かります。今日のすぐあとでは、少年イエスがエルサレムの神殿にてユダヤの教師たちとお話をされていた様子が描かれていますが、知恵に満ちた主イエスのお姿はありますが、なにか異常なお姿、特別に変った様子であられたことは告げられては

いません。当時のユダヤ社会のなかで、健やかに目を上げて雄々しく進まれていかれた主イエスのお姿を垣間見ることができるのではないでしょうか。のちにヘブライ人への手紙の著者が、イエスはすべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのですと強調したとおりであります。


イエスさまとその家族、ヨセフとマリアの両親は、当時の人々と同じような生活を送るものであったようです。それは家族3人で、ユダヤの律法つまり当時の生活習慣どおりに、エルサレムの神殿に礼拝のため上っていったことから

も明らかです。今日の22節にこうあります。「さてモーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を捧げるため、エルサレムに連れていった。」ユダヤの律法、すなわち旧約聖書レビ記に記されている律法

の通り、イエスさまがお生まれになって33日目にエルサレム神殿に上っていったということです。そして律法の規定どおり犠牲のそなえものを捧げようと神殿の境内へと入っていかれました。それはまことに信仰ふかいヨセフとマリアの姿が描かれているのです。当時の人々と変わることのない生活をたどられている家庭がそこにはあります。


しかしながら、そのとき、二人の者が近づいてきます。一人はシメオンという名の老人です。このシメオンという人は周りから、メシア救い主に出会うまでは決して死ぬことはないと言われていました。そして、もう一人はアンナと

いう非常に年をとった女預言者でした。二人とも、非常に年をとった信仰の人でありました。二人とも、長い信仰生活を守り、神殿での生活を続けてきた人であります。長い生活には、いろいろな出来事があり、予想もしない困難や試練の期間が伴うものであります。そういうこの世の出来事を乗り越えて、神の国の幸いを祈り願い続けてきた人であったのでしょう。


今から30年ほど前、私が中央線沿線地区の保谷教会の牧師をしていましたとき、教会員の方で、今日のシメオンとアンナのように非常に年を重ねられたお二人の方がおられました。長く信仰生活を続けてこられたお二人で、その家族の方々も教会を支えておられたメンバーでした。あるとき、お二人の年齢を足したとき、ちょうど200才になられたので、記念のお写真を写したことを覚えております。そして、その頃思わされたことですが、教会の信仰を証しするのに、後ろ姿で伝道することもあるということです。教会で伝道を考えるとき、チラシやビラをくばり、地域に伝道集会の案内をして、みことばの伝道を行うこともあります。一方、長く教会に親しみ、仕え、信仰の姿勢を示していくこともあります。信仰生活において、日曜日ごとに、礼拝堂の定まったところ、おおむね前の方に座って静かに祈り、礼拝を捧げていく、そのような方々の後ろ姿を通して信仰者のすがたというものをおのずと教えられるということもあるのでしょう。シメオンとアンナの二人も、エルサレムの神殿に長く仕え、その祈りとことばによって人々に神さまの恵みと慈しみを語り伝えていたのではないでしょうか。


さて、シメオンは救い主にあうまでは決して死ぬことはないと言われていました。そのシメオンがいま、エルサレムの神殿に来られた幼子イエスをその腕に抱いて、神のみ名をほめたたえています。シメオンは歌います。


「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこのしもべを安らかに去らせてくださ

います。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」


このシメオンの歌は、私たちの教会、ルーテル教会では日曜日ごとに礼拝の終わりの部分、派遣の部にてヌンクディミチスとして歌われてきました。シメオンが年を重ねて信仰の旅を続けてきた今、約束された救い主にお会いすることが出来た。わたしはこの目で救い主を仰ぎ見て、救いの喜びに包まれて安らかに信仰の旅を終えることが出来ると歌うのです。クリスマスの夜、飼い葉おけに休みたもう救い主として、すべての人々のためにお生まれくださった救い主イエス・キリストの恵みをこころから讃美するのです。このシメオンの信仰の歌、喜びの歌を教会の信仰の旗しるしとして高く掲げてきたのです。


そして、このシメオンの歌、ヌンクディミチスを通して、私たちはイエス様への礼拝について教えられるのではないでしょうか。礼拝は英語ではワーシップが使われますが、サービス奉仕とも言われます。私たち人間が神さまへ奉仕するということでしょう。しかしルーテル教会の先達マルティン・ルターは礼拝をゴッデスディーンスト、神の奉仕と呼んでこう言います。「礼拝において、私たちの愛する主ご自身が、その聖なるみ言葉を通して語られるというのです。」まず初めに、主ご自身、イエス・キリストご自身が恵みのみ言葉をもって私たちと出会ってくださり、祝福の言葉をもって世に遣わしてくださるというのです。シメオンが幼子イエスに出会い、神の約束のみ言葉によって救いに入れられたように、私たちも主イエスのみ言葉をいただいて安心して日々の生活へと招かれていくのであると教えてくださるのです。

ルターがウッテンベルグの城教会で礼拝を守っている絵が残されていますが、ルターが語る説教の先には十字架におかかりになる主イエス・キリストのお姿が描かれています。その背後に教会の会衆が集い、主のみことばにあずかっているありさまが光景が示されているのです。なによりも礼拝の中心に十字架の主イエスのお姿を仰ぎ見てきたという教会の歩みがあるのです。


私たちは2020年の最終主日の礼拝を守り、主のみことばをいただいて、恵みのうちに新しい年2021年へと招かれていきます。今年もさまざまなことがあり、うれしいこと、悲しいこと、そしてなによりも新型コロナの影響を

受けてきた日々でありました。しかし、その中にあって、常に主イエスの命のみことばを頂いて、神の恵みに支えられてきた一年であったことも確かなことです。讃美と祈りのことばをもって、主をほめたたえ、神の恵みに生きるものとして進んでいきましょう。

 

イザヤ書40:31

「主に望みをおく人はあらたな力を得、鷲のように翼を張って上る。

 走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」


どうか、恵みの神が信仰から来るあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを恵みにあふれさせてくださるように。アーメン


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