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「シリア・フェニキアの女の信仰」2021年9月5日 田中博二牧師

聖霊降臨後第15主日

聖書箇所:イザヤ書35章4-7a、ヤコブの手紙2章1-10,14-17、マルコの福音書7章24-37


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなた方にあるように。アーメン


今日のマルコによる福音書7:24によりますと、イエス様はそこを立ち去ってティルスの地方に行かれた。だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまったということです。ここではイエス様は、活動の中心であったガリラヤ地方から、地中海に面した異邦人の町ティルスへと足を運ばれたということです。イエス様がガリヤラ地方を離れて異邦人の地へ向かわれることは、極めて珍しいことです。ユダヤ人たちとの論争を避けて、しばらくの間、弟子たちと共に赴かれたということでしょう。

 

そしてイエス様はティルスの地方では誰にも知られたくないと思っておられたということですが、しかしイエス様の活動については既に知れ渡っていました。それはガリラヤ地方でもイエス様のお働きについて、人から人へと語り伝えられていったのと同様です。マルコ福音書1:45では、病いを癒された人が周りの人に言い広めて、イエス様が公然と町に入ることができずに、町の外の人がいない所におられたとある通りです。イエス様による癒しのみ業について人々は語り伝え、自らもその恵みにあずかろうと願っているのです。イエス様の愛といつくしみの出来事は、地域を超え、民族の違いを超えて願い求める者へと届いていくのです。

 

さて、イエス様のことを聞きつけて、その地に住む一人の女性がイエス様のもとにやって来ました。彼女の幼い娘が重い病いの中にあるので、イエス様から癒していただこうというのです。彼女はギリシャ人でシリア・フェニキア生まれの異邦人でした。彼女の願いは、娘から悪霊を追い出してくださいということです。当時、悪霊に取りつかれることによって、人は病気になるという考えでした。このとき、イエス様は彼女の願いを聞いて何とお答えになるのでしょうか。27節にこうあります。

「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」。

このイエス様の言葉は私たちにとって意外な、思いがけないものです。子供たちというのは、ユダヤの民を表わしてます。そして小犬というのが、異邦人のことです。子供たちのパンということで、私たちはヨハネ福音書に記された「いのちのパン」のことを思います。まずユダヤの民が十分、いのちのパンを食べて満足しなければいけないと言われます。ユダヤ人たちのパンを異邦人にやってはいけないというように読めます。イエス様はここでは、神の救いが異邦人へ及ぶことを否定されているように思えます。これは何だか釈然としない、イエス様の本来のお言葉でない、ようです。

 

更に今日の出来事について、マタイ福音書15章の並行記事によりますと、イエス様ははっきりとこう言われています。「わたしはイスラエルの家の失われた羊のところしか遣わされていない」。

思いがけないイエス様のお言葉です。イエス様の働きはイスラエルの民に限定されているように受けとられます。

これは一見すると民族や人種が違うということをもって差別されるように思えます。ユダヤ人が自分たちは選ばれた民であり、それ以外の国民、民族より優れた民であり、従ってその他の人々を異邦人と呼んで差別した選民思想のように思えます。このような民族、人種によって差別をするような状況は今もなお、確かにあるのです。イエス様もそのような思いをもって、シリア・フェニキアの女に接しておられるのでしょうか?

 

しかしここで、よくよくイエス様のお言葉に目を向けていく時、明らかに、選民意識と異なっていることを知らされます。イエス様はここで、27節にて「まず、子供たちに十分たべさせなければならない」と言われているからです。

「まず」という言葉が大切です。「まず」という以上「その次には」という言葉が予想されます。そこには、旧約聖書の民、ユダヤ人の特別な位置が示されています。旧約聖書そして新約聖書とありますように、神さまの救いがまず旧約

の民に及び、そしてその後、ユダヤ人を超えて新約の民、異邦人へと及んでいることが示されているのです。毎週、礼拝の中で旧約聖書の日課をお読みしますが、今日の旧約聖書の箇所はイザヤ書35章4節以下が与えられています。

そこでは、救いの回復として次のように預言されています。

雄々しくあれ。恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍

り上がる。口のきけなかった人が喜び歌う。

 

神は来て、あなたたちを救われる、とあります。救い主イエス・キリストの到来を預言しているのです。全ての人々に救いの回復が告げられています。旧約聖書にある救いの出来事が、イエス様によって実現し、成就することを示し

ています。

さて、一見するとイエス様の拒絶するようなお言葉に対して、シリア・フェニキアの女はどうお答えするのでしょうか。ここでは、大変、興味深いことばをもって、イエス様にお答えしています。28節「主よ、しかし、食卓の下の

小犬も、子供のパンくずはいただきます」。まず、彼女はイエス様を「主よ」と呼んでいます。ユダヤ人ではなく、異邦人であるギリシャ人ですが、あえて、「主よ」とイエス様を呼んでいます。イエス様に対する全ったき信頼を表わし

ます。そして、彼女はイエス様がお語りになった子供と小犬の例えをもって、神さまの救いがイスラエルの民をこえて、私たち異邦人にも及んでいることを語るのです。確かに自らを小犬と例えるのは、抵抗ある呼び名かもしれません。しかしここで、あえて小犬と呼んで、イエス様の前で謙遜なものであることを示しているのです。

 

彼女は、小犬が子供のパンを奪うのではなくて、食卓の下にこぼれてくるパンくず、すなわち、あふれるほどの神様の恵みの一部分を自分たちもいただくのだとお答えするのです。

イエス様はこの女の信仰の姿を認めてくださり、病気の娘に及ぶ神の救いの出来事を明らかにしてくださいました。イエス様はこう言われます。29節,30節。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの

娘からもう出てしまった。女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた」。

イエス様は別のところでは、「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」と語ってくださいました。

 

イエス様はシリア・フェニキアの女の謙遜な、そして忍耐強い信仰の姿をご覧になり、あなたの信仰は立派だと祝福してくださいました。イエス様が祝福して下さった彼女の忍耐強い信仰のあり方にこころを向け、思いを深めていく

者になりましょう。主イエスのみこころに適うものとなっていきましょう。

 

祈 り

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたのこころと思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン

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