三位一体(聖霊降臨後第1主日)
聖書箇所:箴言8章1-4,22-31節、ローマの信徒への手紙5章1-5節、ヨハネによる福音書16章12-15節
私は牧師見習い期間のインターンシップを九州で過ごした。
教会に住み込みで7ヶ月間、家賃はかからないが月5万円ほどで生活をしなくてはならなかった。寝ても覚めても教会、お正月も実家に帰らず過ごす。つまりは牧師に本当になれるかの査定期間でもあった。
クリスマスが終わり一息。お正月を迎えたのだが、やはり家族に会いたい、実家に帰りたいと思った。
そんな私を見て私の指導牧師がお正月の朝、家に招いてくれた。牧師夫婦の遠方に住む成人した
お子さんたちが帰ってきていた。招いてくださったのは嬉しかったが、家族団らん、しかもお正月の家庭内に
入っていくので、なんとも言えない居場所のなさを感じた。
食事が終わるとお父さん、つまりその牧師さんが久々に会うお子さんたちにお年玉をあげ始めた。
何処にでもあるお正月の光景だが、よそ者である私はその様子を見つつ、居心地の悪さを感じてしまったのだ。
そんな時である、なんと牧師が「今日は関野くんもうちの子だ!少しだけど」と言ってお年玉をくれたのである。
ぽち袋を受け取ると大きくて厚いコインの重みを感じる。そう500円玉だ。それでも自分がお正月に
本当にこの家の家族にして貰えた気がして嬉しかった。
そして事件は起きた。自分の部屋に戻り、500円玉が入ったお年玉の袋を開けるとなんと中には500円玉だけでなく、
折りたたんだ1万円札が入っているではないか!
ふたつの声がぽち袋から聞こえてきた。
「私を侮ったな。手の感覚、見た目だけで判断しただろう?牧師は見えない物を見ていくんだ!そして言っただろう、『今日は君もうちのこどもだ』と!」
そう、その牧師の想いを私は完全に見えていなかった。
「少しだけど」という言葉、ぽち袋の手触りと厚さ、つまりは自分の経験、予測、感覚で判断し中身が一切見えていなかった。
神が私たちに与えている聖霊とはそのようなものではないか。既に豊かに溢れるばかりに与えられている。
でも見えないのだ。見えても自分の感覚と経験でしか捉えられていない。そして私に与えられた力などこれっぽっち
と過小評価しているのだ。
使徒パウロという人物は新約聖書の半分以上を書いたとされている。けれども人間の目から見ればパウロは聖書を書く資格などない。まず第一にパウロは実際にイエスと地上で出会っていない。同じ時間と場所を一度も過ごしてもいない。
だとしたら三年間横に居て寝食を共にしたペトロ、ヨハネ、ヤコブなど直弟子が書いた方がよっぽど相応しい。
そればかりか、原理的ユダヤ教徒だったパウロはカルトリーダーのように現れたイエスとそれを信じるクリスチャンが
大っ嫌いであった。大っ嫌いどころか、その存在を許せず、様々な理由をつけて老若男女問わずクリスチャンを捕らえては処刑させていたのだった。
ある日このパウロがクリスチャンたちを更に捕らえようとダマスコという街へ向かう途中、
突如イエスの霊が目の前に現れた。
「どうして私を迫害するのか?」と問いかける。パウロはいきなり敵であるイエスの霊が自分のもとにやって
来た衝動で目がくらみ、三日間も目が見えなくなった。
そしてイエスの霊は同じくダマスコという街にいたアナニアというクリスチャンの前にも現れ、
「パウロ(サウロ)という者が通りの家の中で目が見えなくなっていて、あなたが来るのを待っている。
手を置いて祈ってあげろ」と命じた。
アナニアは即断る「あのパウロという男がどれだけ卑劣にクリスチャンたちを捕らえ殺している事かを大勢の
人から聞きました。そんな者の所になど行けません!」と。
当然だ。同胞を拘束し命を奪ってきたのだ。しかも今その憎むべきパウロは自分がいる街ダマスコに来て、自分たちを捕らえようとしていたのだ。
目が見えないうちに逆に殺しておいた方がよいくらいだ。
だがイエスの霊はその憎き敵、パウロの為に祈れというのだ。「アナニアよ。そうではない。彼は私を伝える者になるのだから行きなさい」と。
誰にも見えない、理解できないストーリーを神は描く。
神が造ったいのちの物語は絶対に人には理解できないし見ることができない。
お正月の500円玉入りのお年玉袋。多分100人いても誰もその中に1万500円が入っている事を開けるまでは
誰ひとり分からない。それ以上に神の計画、霊の働きは想像を遙かに超越していく。
アナニアは出かけて行き、本当は自らの手で殺してやりたいほど憎いパウロに手を置いて祈った
「神があなたの目を開き、あなたを聖霊、神の霊で満たしてくださいますように」と。
するとパウロの目は開け、そしてクリスチャンにとって最悪な敵だったパウロは誰よりもイエスを伝える最高のクリスチャンにつくり変えられたのだ。
今日の第二の日課のロマ書5章で「この神の愛が聖霊によって注がれた」と言い、そしてこの聖霊により「苦難は忍耐を生み、忍耐は練達を生み、練達は希望を生む」とパウロは語った。
つまり聖霊とはその人の中に神が与えた本当のいのちであり、そして人間的なマイナスを全てプラスに変える最大の力なのである。
アナニアはイエスに「大勢の人が、皆があのパウロが本当にひどい人間だと言っています」と抵抗した。
でも誰もパウロの中に注がれる聖霊、神がパウロに与えたいのちの物語を理解できなかった。
否、私たちは自分の命の価値、そして自分の使命が理解できない。
けれども今日、私たちは既に「父と子と聖霊」の名前によって礼拝に集まっている。
気がつかないほどに、見えないほどに、でも溢れるほどに神は既にあなたに聖霊を送っている。そのいのちの豊かさは誰からも見えないし、自分自身ではなおさら見えない。
人の評価ではない。社会の基準ではない、神がつくったあなたの本当のいのちの物語、そしてそのいのちの
輝きがあるのだ。お年玉の比ではない。人生のぽち袋を今日開けよう。