四旬節第1主日
聖書箇所:申命記26章1-11、ローマの信徒への手紙10章8b-13、ルカの福音書4章1-13
教会らキリスト教会はイエスの復活を祝うイースターまで、約40日間に亘ってイエスの苦しみを追体験する受難節に入った。多くの奇跡を起こし、これまでの概念をひっくり返すような神の国を語ったイエスは、権力者に妬まれ、不当に逮捕される。そして弟子たちや群衆に見捨てられて、兵士たちにリンチされて十字架で公開処刑されてしまう。
いつも見ているこの十字架はそのイエスの苦しみの全てを表している。
この期間、伝統的にクリスチャンたちは少しでもイエスの苦しみを体験し、イエスを十字架に追いやった人々の罪、
自分の罪に向き合うために自らに40日間苦行を課してきた。断食、徹夜の祈り、社会奉仕、普段しない事を取り入れ、イースターまでの時を過ごすのだ。
だが、この期間は禁欲期間の為にあるのではないと思う。そうではなく、自分にとって一番大切な言葉を探す期間であると思う。もっと言うのであればあなたを今生かしている言葉、あなたが人生の最後に聞きたいと思うような言葉と出会う期間である。
あなたが今日聴きたい言葉はどんな言葉だろうか。こんなに毎日朝から晩まで不安なニュース、世界中から悲鳴が聞こえるような世界のど真ん中で今日、あなたが聴きたい言葉は何だろうか。
毎週、毎週、色々な所に出かけて行き、色々な人々に出会うのだが、驚くことに気がついた。
それは実に多くの人々が「死にたい」「もう生きていたくない」という思いを持っているの事である。
病気だったり、人間関係であったり、経済苦だったりと理由はそれぞれだが、一つ共通して言える事がある。
それは希望がなくなってしまっている事である。
おおよそ今日、この半世紀の中で一番社会が混沌としている時代。そしてパンデミックの中で人と人とが会えなくなり、激しい孤独の中に人々はいる。誰とも話さず1日が終わる人もいる。例え、家があろうとも、財産があろうとも、
今日一日の食事が冷蔵庫に入っていたとしても、誰とも会わず、話さず、更には誰からも思い出されない、
誰からも必要とされない時、死にたくなるほどの孤独に突き落とされる。
イエスは言った「人はパンだけで生きるのではない」。もちろんパンも水も家や服何もかも必要だ。
けれどももっと必要なものがある事をイエスは示した。私の友人、パレスチナ人の牧師でずっと平和活動を続けている牧師がいる。宗教、政治、終わることの無い、中東地域のど真ん中で敵対する国に出かけて行き、
他の宗教者のグループの中に出かけて行き、平和の橋をかける為に命懸けの事をしている牧師だ。
宗教を超えた対話、敵対国との交渉、彼には何度も殺害予告などの脅しが届いたという。
でも彼はいつも笑顔でかつ、何処に行くにもボディーガードをつけないで、一人で出かけていく。
そんな彼がこんな事を言った「人は30日間、パンを食べなくても生きていける。人は3日間、水を飲まなくても生きていける。けれども希望がなければ3秒たりとも生きられない」と。
確かにそうだ。パンがなく飢える事、水がなく乾くことは狂わんばかりに苦しい、でも希望がない事はもっと苦しい。そして私たちは今日、希望が叩き潰されるような時代の中、まさに荒野の中を生きている。
希望なんて表面的で使い古された偽善的な言葉のように感じる。だがこれがないと私たちは生きていけないのだ。
イエスが言った「人は神の口からでるひとつ一つの言葉で生きる」、イエスが聴いた神の言葉は洗礼の時の言葉だ
「あなたは私の心に叶うもの。あなたは素晴らしい、あなたの存在そのものがどれだけ私の喜びになっているか」。
極めてシンプル、だが最も強い一言。あなたが今、存在し、ここにいる事が最大の喜び。
このような言葉をあなたはこの一週間、誰かに言われただろうか?あなたはこのような言葉を誰かに語りかけただろうか。
私は「死にたい」と訴える人々に必ずかける言葉がある。それは「それでも今日、ああんたと会えた事は良かった」「苦しい中でもあなたが本心を話してくれた事が嬉しい」、この二つしか言えない。私はこの言葉を神の言葉だと思っていつも投げかける。
そして多くの人がこの二つの言葉で「少し元気が出た、、、」と言ってくれる。
だから私は荒野のような世界で今日もあなたに言う「今日もあなたに出会えて嬉しい」
「あなたが居てくれる事が嬉しい」、「その事を誰よりも神が喜んでいる」と。