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「バカボンのパパと神様」2022年3月27日 関野和寛牧師

四旬節第4主日

聖書箇所:ヨシュア記5章9-12、コリントの信徒への手紙二5章16-21、ルカの福音書15章1-3,11b-32


先日、礼拝後に大学生とそのお父さんが「来週の説教題がおもしろそう、礼拝にまた来たい」と言ってくれた。だが自分では説教題を何とつけたか覚えてはいない。なんと「バカボンのパパと神様」赤塚不二夫先生の名作だ。先日も1話見たのだが、息子バカボンとその友人の喧嘩に首を突っ込み、息子の友人に殴りかかり逆に返り討ちにされるという破茶滅茶なストーリーだった。毎回、破茶滅茶な展開になるのだが「これでいいのだ」とパパが締めくくり話が終わっていく。聖書を読んでいると、私は天の父なる神はそのような親父だと思っている。ましてや我が子を十字架につける神など正気とは思えない。


私たちはそのような破茶滅茶な神とまだ出会っていないのではないだろうか。教会で祈る時に「天の父なる神よ」「天のお父様」という言葉を使うが、この響きが私たちの神へのイメージを歪め、そして精神的な距離をつくる。「お父様」などという言葉を使った瞬間、白い衣を着た、近付き難い、聖人君子の権威的な父親をどうしても想像させてしまう。


 聖書に出てくる神は全知全能、正義と優しさのお父様ではない。感情的で矛盾に満ちていて、それでも憎めない、愛情に満ちたダメオヤジだ。今日の福音書の物語は「放蕩息子の例え」という有名な物語だ。金持ちの家のバカ息子が父親の金を散財して一文無しになるが、父親の寛容な愛によって許されると語り継がれている物語だ。既存のキリスト教界は「神様は全財産を使い切った放蕩息子を無条件の愛で赦す神様です。そんな神様にあなたは愛されています!」というような決まりきった表面的メッセージを語っているが、私はそうは思わない。


 確かにこの物語は父親の財産を生前分与で受け取り、娼婦や酒宴に使い果たした大バカ息子の話だ。だがこのバカ息子をバカ息子にしたのは誰だろうか?間違いなく父親である。何百万か何千万円とにかく大金を持ち去り、それを全て欲望を満たす為に使い果たし、周りから人が誰もいなくなり実家に戻ってきた息子をを叱ることもせず、この父親は寄って抱きしめて、召使いに最高級の服を持って来させ、仔牛を一匹丸々焼いてして宴会をはじめるのだ。完全に狂っている。病的な過保護さである。


 ちなみに、この物語には母親が出てこない。かあちゃんはどこへ行ったのだろうか。死別か、離婚か、もしかしたら過保護の親父に虐待され続け引きこもっていたのかもしれない。とにかくこの物語には母親不在である。このバカ息子には堅実に父親の家業を手伝っていた兄がいた。だが兄は父親の過保護っぷりに激怒し、弟が実家に帰ってきた事をこれっぽっちも喜ばない。いずれにせよこの家族は歪んでいる、壊れている。


 あるとき、先輩牧師が私にこう問いかけた。「この物語の結末、どうなったと思う?」「俺はこの息子、また同じ事を繰り返したと思うよ。この息子は一文なしになりある農家の使用人になり家畜の世話をするが嫌になり、父親の元に戻りどう取り繕おうかシュミレーションをしていた。改心なんてしてない。この息子はしたたかだよ」と。その通りだと思った。私はこれまで既存のキリスト教界の教えに洗脳されていた。この息子は父親の無条件の愛の前に改心などしていない。一から出直す事を諦めて父親の処に戻り、更にそこで甘やかされていくのだ。人の性根は変えることなんてできないのだ。


 これは放蕩息子の話ではなく、壊れている家族の物語だ。だから壊れた家族関係の中に生きる私たちに届くのだ。父親は超過保護で、かあちゃんはどっかへ行ってしまっている。兄は心を閉ざし、弟は家の財産を食い尽くした。然も酒宴や娼婦に全てを注ぎ込んだのだ。


 そんな息子が一文無しになってボロボロになって帰ってきた時に、この親父は全力で走って行って抱きしめたのだ。そして最高の服を着せごパーティーをはじめる。赦しなどではなく最大の甘やかしだ。そしてこの甘やかしを前に真面目な兄が激怒する「父さんは真面目に働き続けている私の為には何もしてくれないじゃないか!」家族は更に歪む。だがオヤジはそれでも何とか家族を繋ぎとめようとするのだ息子よそうじゃない。私のものは全てお前のものだ。だから帰ってきた弟を一緒に祝おう!」と。


 確かに喜ばしい祝いの時かもしれない。けれども本当に息子の事を思っているのであれば、罰を与え、教育、教訓が必要なのではないか。だがこの親父は祝宴を始める。この甘やかしに似た、狂おしい愛はもしかしたら正解なのかもしれない。以前、覚醒剤と社会復帰についてタレントの田代まさしさんと対談をさせてもらった事がある。彼は一度目に逮捕された後に自助団体のダルクに入り、治療と社会復帰に励んでいた。


 だがそんなある日、田代さんは今度は覗きをしてしまい、逮捕され再び収監される事になった。田代さんは過ちを犯してしまった事、そして自分を信じ手を差し伸べてくれたダルクの会長にその事実をいう事が苦しくてたまらなかったという。だが勇気を振り絞って「私、また罪を犯してしまい、逮捕されました」と告白すると「おめでとう!」と会長は答えたという。


 この方は先日亡くなられたダルクの近藤会長、大物である。本当は「ばかやろう!」「何やっているんだ!」怒鳴り、殴りつけたいほどの悔しさ、悲しさが込み上げていたのかもしれない。けれども人生のどん底、綺麗事では癒やされない、魂の痛み、命の傷は懲罰では癒やされない事を知っていたのであろう。「おめでとう!」は最大の逆転の発想だ。「おめでとう!」には「こうやって繰り返しながらでしか先に進めないんだよ」「これも順調なしるしだよ」という愛が込められていたのかもしれない。


 この「おめでとう!」が自分の中の何かを変えたと田代さんがしみじみ言っていたのを忘れられない。天の親父はこの放蕩息子が変わらないことを知っている。そして私たちが変われないことも知っている。何度も同じ失敗を繰り返し、変えられないヘドロのようにへばりついた醜さがある事も神は知っている。けれども私たちは親父の家、教会に帰ってきたのだ。土足で汚れた生き方のままで。そして親父は言うのだ「何とめでたいんだ!」「宴会を始めよう!」「私の子供が帰ってきたのだ!」と。そしてこの親父、神の狂わんばかりの愛が、あたなを変え始めるのではないか。そう「これでいいのだ」。

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