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「メンタル弱めがいい塩梅」2023年2月26日 関野和寛牧師

四旬節第1主日

聖書箇所:創世記2章15-17節,3章1-7節、ローマの信徒への手紙5章12-19節、マタイによる福音書4章1-11節


今日のテーマは悪魔の声とその誘惑である。人は声によって生かされるし、誰かの声によって殺されもする。

生まれた時に「おめでとう」と祝福され、はじめて歩き出した時に「すごい!歩けた、歩けた!」と褒められ、

はじめて話せた時には「すごーい、ちゃんとお話できたね!」と祝福される。


けれども成長するにつれ「もっとがんばれ!」「何故、お前だけできないのだ」比較の声に私たちは迷いだす。

そして世間の声、社会の声、メディアの声に私たちは時に洗脳され、そして心を破壊される。


絶え間なく聞こえてくる戦争の声、災害の声、経済危機の声。崩れていく世界の声は人々の心を不安で満たし、

対立と敵対心を産んでいく正に悪魔の声だ。


そのような世界の中で、一人ひとりもまた様々な角度で悪魔の声を聞く。健康を失い、自分の居場所を失い、未来を失い、そして最後に自分自身が自分に呪いをかける「お前になど価値はない」と。


祝福ではじまった人生は気がつけば絶望の声に支配されている。悪魔の声、それはツノ、キバ、羽が生えているような悪魔が金切り声を上げるのではない。聖書に「悪魔でさえ天使を装う」と書いてあるが、悪魔の声とは一見正しく良いものに聴こえるものではないだろうか。悪魔の声とは世界の声、他人の声、しかも皆が謳う正義や平和の中に

宿る。そして最後には自分の声さえも悪魔の声になっていくのだ。


イエスが人生初の布教活動をする前、40日間の断食を行なっている。生身の人間の身体を持っているイエス、

流石に水は飲んでいたであろうが、何も食べずに荒野の中でただ一人居続けた。そこでイエスを苦しめたのは空腹と共に悪魔の誘惑の声であった。


断食していたイエスは極限の空腹に苦しみ出す。すると悪魔が言う「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」。神の子イエスにはそれができるし、悪い事ではない。現にイエスはこの後の布教活動の中で僅かな

パンを無限大に増やし、民衆にパンを配る奇跡を行う。だからこの荒野で石をパンに変えて食べる事は何も間違った事ではない。


次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて「神の子なら、飛び降りたらどうだ。

『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、 天使たちは手であなたを支える』 と書いてある。」とイエスに語りかける。


この悪魔の語りが実に巧妙だ。まず神殿の屋根の端に立つ事。これは古の時代より「救い主(メシア)が現れる時、その者は神殿の屋根の上に立ち、群衆にその姿を見せる」と伝えられていた。つまり救い主であるイエスがなすべき事は、誰もいない荒野などで一人断食をしている場合ではない。抑圧された、貧しさの中で生きている群衆にその姿を

見せるべきなのだ。その求めが時代の声であり、人々の求めの声なのだ。しかもその神殿から飛び降り、

天使がイエスの身体を支えれば、それこそイエスが本物である事の証になる。そして「それができると聖書に書いてある」と悪魔は聖書さえ引用してイエスを惑わそうとする。


先も記したが悪魔の声は、誰しもが「悪」と判断できるような者ではない。

むしろ逆で群衆の声、世間の正しさ、または宗教の中の真理の中にさえその身を潜ませるのが悪の声である。

だから私はまず声を疑う。メディアの声を疑う、権威ある宗教者の声を疑う。皆が良い、皆が正しいと言う事を

疑う。そして自分の声こそを疑う。


この世界にただひとつの正しさなどない。

人は聞きたい情報を聞きたいように聞き、事実を切り取り、歪め、自分の語りたいように語る。

イエスと悪魔の対決でも両者ともに聖書の言葉を引用している。聖書vs聖書、どちらが正しいかなど分からない。


客観的に見ればイエスが一人で40日間断食しているより、石をパンに変え、そして神殿の屋根の上に立ち、

そこで自分をアピールする方がよっぽど救い主の姿になれるのだ。だがイエスはそれをしない。


最後にこの物語がリアルである点について。

それは荒野の中で悪魔は囁き、イエスはそこに必死に聖書の言葉を持って争っている。だがその対決の中で神は沈黙を貫くのだ。悪魔の囁きの嵐の中で、神は何も言ってはくれないのだ。


正に私たちの現実である。この上ない試練の中、神は何も言ってはくれないのだ。だがイエスには書かれた神の言葉があった。消えない神の言葉が刻まれていた。世の価値判断、宗教の正しさではなく、自身の人生に刻まれ、

書かれた神の言葉があったのだ。


そして私も私の人生に刻まれ、書かれた神の言葉は何だろうかと問う。好きな聖書箇所はいくつもある。

だが極限の苦しみや誘惑を振り払えるものであろうか。


きっと私は誘惑に負けるだろう。そして悪魔の言葉に飲み込まれるであろう。悪魔の声に一瞬に拐われる

アダムとイブの子孫だから。


だがその時に私は十字架を見る。人の原罪、そして私の罪をその身に引き受けたイエスの十字架の声が聴こえる。「この人を二度と悪魔、死に渡さない!」、イエスの十字架の手のひらには私たちの名が書かれているのだ。

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