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「ラザロ、神は助けられる」2022年9月25日 田中博二牧師

聖霊降臨後第16主日

聖書箇所:アモス書6章1,4-7節、テモテへの手紙一6章6-19節、ルカによる福音書16章19-31節


 ルカによる福音書では、イエス様は意味深いたとえ話をもって福音の真理を明らかにしてくださいました。

ルカ福音書15章には「99匹の羊と迷子の一匹の羊」のたとえがあり、11節からは「放蕩息子のたとえ」が語られていました。また、前の10章では「良きサマリヤ人のたとえ」がありました。これらのイエス様がお語り下さったたとえ話は、神様の愛と慈しみについてこころに残る説き明かしがなされています。


 それに比べて先週の日課16章の不正な管理人のたとえ、そして今日の金持ちとラザロのたとえ話はなかなか分かりにくく、一度読んでも一体どういうことが言われているのか分からないような気持ちになります。それでも話の内容それ自体は難しいものではありません。


 ある金持ちとその門前にいた貧しい男ラザロの物語です。金持ちはいつも紫の衣や柔らかい麻布を着て毎日ぜいたくに遊び暮らしていました。一方、貧しいラザロはこの金持ちの門前にいて、金持ちの食卓から落ちる食べ物でお腹を満たすような暮らしでした。彼はできものだらけの身体で、そのできものを犬がやってきてなめていた。

まさにみじめな男の姿です。


 そしてその後、ラザロは死んで、天国にいるアブラハムのふところに抱かれています。一方、金持ちも死んで葬られ、そして黄泉の国でさいなまれ、熱い炎のなかでもだえ苦しむ、そのような有様であったというのです。

このような死後の国を含んだたとえ話は、近隣の国々、エジプトやアラビア地方において、これと良く似た物語が伝わっています。


 そこでは生きている時、良いことを行った人は天国に招かれ、悪いことをした人は地獄のような苦しいところに追いやられてしまう、そういった因果応報を示すお話が伝わっているのです。私たちの間でも、こどものときに、そういった悪いことをすれば死んで罰を受けるというようなお話を聞いていたものです。


 イエス様は今日のたとえの中で、同じような事柄を教えておられるのでありましょうか。いや、そうではありません。イエス様は当時の人々が語り合っていたような出来事や価値観を、はるかに超えた神の現実を示してくださいます。人々が語っているたとえ話をとうしても、そこにある神様の真理を明らかにしておられるのです。


このとき、ラザロ、一人の貧しい男はただ、金持ちの門前にすわって、金持ちの食卓からこぼれ落ちるもので、やっと命をつないでいる者でした。彼が何か、天国に相当する良いことを行っていたことは、何も記されてはいません。むしろ、みじめな彼の境遇が記されているだけです。当時の因果応報の世界では、何か良いところがあった。だから、彼は死んだ後、天国へ迎えられたのだ。だから、私たちも生きているあいだ、良い働きをして、人に親切になろう。

そして、天の国の恵みをいただこうではないか!と勧めます。もちろん、良いことをして、人に親切であることは素晴らしいことです。できるだけ、そういう生き方をしたいものです。しかし、私たちはどうしても、良いことを行うことが、親切に振る舞うことが表面的であり、その場限りの行動でしかないものへとすりかわってしまうことがあるのです。それは本当に偽善的なものへとすりかわってしまうものなのです。それが私たちの姿ではないでしょうか。


 良いことをしようと思っても、結果的は悪を行ってしまうこともあるのです。


 でも、ここでラザロは、なにか良いことを行った、周りの人に親切にしてあげた、そのようなことは何も語られてはいません。むしろ、それよりもラザロはただ、、門前にすわっていただけです。いわば、人生の落伍者、迷い人になっていたといっても良いのでしょう。

ここで私たちは、ルカ福音書15章の「99匹と迷子の一匹の羊」のたとえ話を思い起こします。迷子になった羊は、特別に優れた、良い羊ということではありません。この羊は、群れから外れて迷子になったのです。羊飼いは99匹を野原に残して、迷子になった一匹の羊を探すのです。そして見つけたら、喜んでその羊を肩にかついで、家に帰り、一緒に喜んでくださいと言うのです。まさに、ラザロ、その名のとおり、神は助けられるのです。


 金持ちの門前にすわり、彼の食卓から零れ落ちるもので命をつないでいるようなラザロに目をとめ、いつくしみ深いまなざしをもってご自身のもとへ、神の国の宴席へと招き入れてくださるのです。人生の迷い人になっているラザロへ、深い神の愛をもって招いてくださるのです。それは私たちに対しても、同じであります。いつも、日々、迷いの内にある私たちに、神の愛、主イエス・キリストの愛は注がれているのです。なんと大きな愛が、私たちの思いをはるかに超えた主イエス・キリストの愛が与えられるのでしょうか!私たちもまたラザロ、神は助けられるという名前を持つものとされているのです。


 一方、どうでしょう。金持ちの男は黄泉の国でさいなまれ、熱い炎のなかで苦しんでいます。金持ちの男はアブラハムにこうお願いをしています。「わたしをあわれんでください。ラザロをつかわして指先を水にひたし、わたしの舌を冷やさせてください」。

 彼は生前、いつも紫の衣や柔らかな麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていました。

金持ちの門前にいるラザロに目を向けることはありませんでした。他者の痛みに目をそそぐこともなかったのでしょう。確かに親切なこころ、回りの人々を配慮することは少ないものだったのでしょう。しかし、それが原因で熱い炎の中で苦しみを受けるということでしょうか?


 そうではないと思います。今日の25節の初めで、こう言われています。「しかし、アブラハムは言った。子よ、思い出してみるがよい」。金持ちの男も、アブラハムから子と呼ばれています。アブラハムに敵対する者ではない。ラザロと同じ、子、わたしの子と呼ばれています。


 では何が、ラザロと違うのか。それは今日の物語の後半の主題になっている「悔い改め」という事柄です。

この金持ちは、自分の父親のもとにいる5人の兄弟のことを思い、黄泉の国に来ることがないようにと、証人としてラザロを遣わしてもらうようお願いをします。しかし、アブラハムは、モーセと預言者とに耳を傾けるようにと言うのです。モーセと預言者、そのことは、聖書のみことばを指しているのです。聖書のみことばを聞くことによって、心を砕かれ、主なる神様のもとへと立ち帰っていくこと、悔い改めへと導かれるよう勧められます。


 ルカ福音書15章11節でイエス様は「放蕩息子のたとえ」を語ってくださいました。兄と弟の

二人の兄弟がいて、下の弟はお父さんの財産を分けてもらって遠い国に旅たち、そこで放

蕩の限りをつくして、全部の財産を使い果たしてしまいます。ちょうど、その時飢饉になって

弟は食べるにも事欠くほどになってしまいます。

  

 豚が食べるいなご豆で腹をみたしたいと思うほどになってしまいます。そのとき、初めて

本心に立ち帰り、お父さんのもとに帰ろうと、そこで彼は悔い改めのこころへと導かれていく

のです。家を出て、遠い国へと旅立った弟はその時初めて、父親の大きな愛に気ずかされ

るのです。食べることにも事欠くような困難と苦しみ出会って初めて、ふるさとの父の存在

に気ずかされるのです。それはまた、天の父なる神様の慈愛の中にあったということなの

でしょう。


 この金持ちは自分の今の暮らしを支えておられる神さまの愛に気ずくことはありませんでし

た。紫布の服を着て、ぜいたくに暮らしをしているのは、もっぱら自分の富、自分の力だと

考えていました。この金持ちが気づく以前に、彼を支え、守っておられる天の神様の愛に目

を向けようとはしないのです。彼の命が失われて初めて、天の父なる神へ、そのみもとにい

る父アブラハムへと向かうのです。


 この金持ちは悔い改めへと導かれませんでした。金持ちの日々の暮らしが神様によって守

られ、導かれていたことに目を開かれていれば、また、彼の周りにいるひとりひとりの働き

によって、支えられていたことに気づくことがあれば、そして彼に与えられていた聖書のみ

ことばに真剣に向き合っていれば、悔い改めへと招かれていたことでありましょう。


 これはまた、私たちひとりひとりへの問いかけでもあります。イエス様のみことばにこころの

目が開かれて、日々悔い改め、主のみあとをたどる者でありましょう。私たちを慈しみ、常にみもとへと招いてくださる主イエスの愛へ近づいて、豊かないのちの糧をいただくものでありましょう。

  

人知ではとうていはかり知ることのできない神の平安が

あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン

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