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「一杯の水を」2021年9月26日 田中博二牧師

聖霊降臨後第18主日

聖書箇所:民数記11章4-6,10-16,24-29、ヤコブの手紙5章13-20、マルコの福音書9章38-50


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなた方にあるように。アーメン


イエス様は故郷の地ガリヤラから都エルサレムへと上られる旅の途上にて、主に従う者としてのあり方を教えてくださいます。マルコ福音書9:38にて12弟子の一人ヨハネがイエス様にこう述べています。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」。このヨハネは、最初の弟子として選ばれた4人の漁師の内の一人で、ボアネルゲとイエス様から呼ばれていました。その意味は、雷の子というものです。それほど、人一倍、熱心であったというのでしょう。

そのヨハネが、イエス様のお名前を使って病気をいやし、悪霊を追い出している人を見て、やめさせようとしたと言うのです。最初からイエス様に従っている者として、主の弟子として当然なことを行っているという自覚を持って、

イエス様に報告しているのでしょう。イエス様の働きを熱心に支え、弟子たちの繋がりを固くして、組織としての活動を活発にする働きへと力を注いでいったのでしょう。

 

そして、この時すでに、イエス様のお名前と働きが、イスラエルの地を超えて、異邦人の土地にまで伝わっていたことが分かります。7章のシリア・フェニキアの女の信仰の場面でも、イエス様のお名前が外国の地、ティルスの町に

住む女性のところまで伝わり、彼女の娘の病いを癒してくださったことが語られていました。そういう中で、イエス様のお名前を勝手に使って、病いを癒す者たちもいたのでしょう。偽預言者たちと呼ばれるグループもいたようです。

そのような人々に対して、ボアネルゲ、雷の子らとして、ヨハネはその本領を発揮しているのです。それはまた、ヨハネだけに限ったことではないと思います。信仰的、宗教的に熱心な者は、しばしば自己中心的なものの見方になって

しまうことがあります。極端な場合は、原理主義となり、他の人々、異なったグループを排除してしまうことになりやすいのです。自分たちだけの正しさを主張してしまうことになります。周囲の人々をあたたかく見守っていく寛容さ

が失われてしまうのです。

 

このヨハネに対してイエス様ははっきりとお語りになります。39、40節。

「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」。やめさせてはならない、と主イエスはお語りになります。

イエス様のお名前を使って、良い働きをする者は、わたしたちの味方であると教えてくださいます。神の愛を表わすために共に働く者たちだと教えてくださいます。私たちのこころを柔らかにし、主イエスの愛のまなざしに従うように勧めてくださいます。

 

その中の一つの例として、東京とそして名古屋で参加した「教会音楽祭」の内容を思い起こします。私たちは普段、自分の教会で礼拝を守りますので、他の教会がどういう礼拝を守り、どんな讃美歌を歌っているのか知ることが少ないものです。ルーテル教会の礼拝はすばらしい、とこころから思っています。もちろん、そうですが、しかし、教会音楽祭に参加して思ったことは、それぞれに素晴らしい教会音楽であり、讃美歌だということです。礼拝の雰囲気や讃美の仕方は、それぞれに異なっています。それぞれに違っているが、それぞれに素晴らしい、そういう思いを持ちました。神様への讃美は一つですが、わたしたち人間のやり方はそれぞれの思いのままとなっていくのです。礼拝や教会音楽はひとつの側面ですが、それぞれの教会の素晴らしい一面にこころを留め、互いに認め合って、キリストの福音を宣べ伝えていく働きを共に果たしていきたいと思うのです。 

私たちは、日曜日ごとに主なる神のみ前に悔い改め、「思いとことばと行いとによって多くの罪を犯しました」と懺悔をするものです。こころからの悔い改めによって、再び、新しいいのちへと歩み出す者とされています。主イエス

の十字架と復活の道を共にたどる者へと招かれているものなのです。

 

さて、今日の後半で特にイエス様が教えてくださるところは、いと小さい者への愛のまなざしということです。小さい者の一人をも滅びることがないようにと祈って下さることです。

41節では、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受けると約束してくださいます。いと小さい者たちのグループにこころを傾け、例え、水一杯であっても愛のこころで接する者を祝福してくださるのです。

そして、42節以下では、いと小さい者につまずきをもたらす者への警告を語って下さいます。ここでは、私たちからすると、極端な表現がとられているように思われます。「大きな石臼を首にかけられて、海に投げ込まれてしまう

方がはるかによい」とは過激なことばです。また、つまずきを避けるためには、体の一部をも切り捨てなさい、というのも、激しいことばです。更には、ここで「地獄」という表現も、4度も使われています。いずれも、イエス様のことばとしては、極端なものです。

 

ここでは、イエス様がすでにお示しになられたご自身の「受難予告」が前提となっているということです。イエス様が十字架への道を進み行かれる、その途上にある局面が描かれています。そして、それはなによりもイエス様が、いと小さい者たちを愛し、一人ひとりを大切にされるお方であったということです。イエス様のたとえ話のなかで、迷った一匹の羊と99匹の羊のたとえを思い出します。

迷子になった一匹の羊を探しにいくのに、99匹の羊は野原に残しておいて出かける、とあります。いつくしみ深いイエス様は当然、迷子の一匹の羊のために、残りの99匹は野原に残して探しに出かけるのです。それは主イエス・

キリストのお姿です。

しかし、今日の世界では、決してそうではありません。数や合理性からすると、99匹の方を優先するのは、わたしたちのやり方でしょう。しかし、救い主イエスは、そうではありません。

99匹を野原に置いても、見失った一匹の羊にこころを傾けてくださるお方です。このいと小さい者を愛し、支えてくださるお方を救い主と信じるわたしたちです。いと小さい者のために働かれるお方であることは常に変わることは

ありません。

 

いと小さい者たち、すなわち、私たちと共にいて支えてくださる主イエスに感謝し、主イエスが示される信仰の道をたどる者となるよう願い求めていきましょう。救い主イエス・キリストが招いてくださる恵みの道のりを一歩一歩、

確かな歩みができますよう祈っていきましょう。


どうか、恵みの神が信仰から来るあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを恵みにあふれさせてくださるように。  アーメン



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