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「中途半端に持っているなら、捨ててしまいしょう」2022年3月13日 関野和寛牧師

四旬節第2主日

聖書箇所:創世記15章1-12,17-18、フィリピの信徒への手紙3章17-4章1、ルカの福音書13章31-35


 先日、とあるキリスト教系の学校で行われる礼拝に呼ばれてメッセージを語ってきた。応接間で控えていると何人かの先生が来て私にリクエストをしてきた。ある先生は「関野牧師らしくストレートに激しくぶちかましてください!」と言い、他方の先生は「コロナにより去年は牧師を招いて一度も礼拝ができなかった。牧師に会った事のない生徒たちも沢山いる、関野牧師を見てショックを受けてキリスト教の印象が変わってしまう恐れがあるからおしとやかにお願いします」と。

 両方の先生が言っている事が何となく分かる。だから私は「先生方、分かりました、じゃあおしとやかに激しく語りましょう!」と答え、いつも通りにメッセージを語った。究極の選択であり、どちらの声に聞き従うか。実は私たちは毎日、様々な選択の前に立たされている。朝、どの靴下を履こうか、朝、紅茶かコーヒーにしようか、教会に行こうか行くまいか?統計によれば人は1日に3万5千回以上の選択をしているという。そしてその選択に迷い多くの時間とエネルギーを奪われる。  喉が渇きコンビニに入れば何十種類もの数が陳列されている。お茶だけでも十数種類あり、カテキンが入っていたり、自社製品の安いお茶があったり、どれを手に取っていいのか迷わされる。耳掃除の為に綿棒を買いに薬局に行けば綿棒だけでも何種類もある。これだけ選択肢があるのは日本特有であるという。  選択肢があるという事は豊かさでもある反面、逆に悩みを増やし、そして後悔を生み出し、生きるエネルギーを奪われる。昨今、断捨離をしていつも同じ種類の服を来て、同じパターンの食事を取るシンプルなライフスタイルが流行しているのは、溢れる情報、数えきれない物質から生活を解放してくれる作用があるからだ。  お茶や綿棒の選択ならともかく、その選択が自分の人生、生き方に影響をおよぼす選択の前に私たちは大いに迷い、疲れ果てる。そしてそこで生きる意味さえを失いかねない。この職場にいていいのだろうか、このコミュニティーに自分がいる事が正しいのだろうか?そのような苦しい疑問を抱く時、私たちは誰の声に耳を傾けるだろうか。  今日の福音書の物語はまさにその事を伝えている。イエスは周辺の村や街で人々を癒し、神の国を伝え続けていた。けれどもそのやり方は過激だった。安息日というユダヤ教で労働を禁ずる日にあえて治療行為を、そしてしかもそれを礼拝所でやってしまうのだ。イエスの癒しの奇跡は弱者救済の福祉活動の側面があったが、既存の宗教や政治に対する挑戦であり挑発行為でもあった。  だからこそイエスの活動は徹底的にマークされ、その命は狙われた続けたのだ。癒しと救いの活動し続けるイエスの元にファリサイ派と呼ばれる法律家たちがやってきて「この場所を離れてください。ヘロデ王があなたを殺そうと狙っています」と言った。この声一つとっても様々な意味にとれる。どう聴くのか選択を迫られる。一見、法律家たちはイエスを案じイエスを逃そうとしているようにも聞こえるし、逆に「死にたくなかったら私たちの目の前から消えろ」と脅迫しているようにもとれる。  だがイエスのとってはどちらでもよかった。それはイエスは支配者の声でもなく、群衆の噂でもなく、神の声のみを聞いていたからだ。全く恐れがなかった訳ではないと思う。イエスにも迷いがあり、恐れがあった。事実、イエスが十字架で処刑される前夜、ゲッセマネの園と言われる場所でイエスは血のような汗を流しながら「十字架にかかりたくないです、、、」と恐怖に震えながら祈った。  自分の死を前に、仲間たちの裏切りを前に、その命は激しく震えるのだ。けれどもイエスの強さは最大の恐怖の前に恐怖よりも強い、神の声を聞こうとする事だ。死の声よりも強い神の声、命の声を聞こうとする事にある。むしろそうしないとイエス自身生きていけなかったのではないかとさえ思う。イエスは生まれながらにヘロデ王に抹殺されそうになり、そしてその息子のヘロデ2世にもまた命を狙われるのだ。  イエスは法律家たちを退ける、あの狐の所に帰って言え「私は絶対にこの癒しの働きを止めない。この道を進むことを絶対に止めない。エルサレムで死ぬまで決して止めない!」と。狐とはずる賢く卑怯な存在を表す言葉だ。イエスは時の最高権力者さえ一蹴するのだ。  それは決して恐怖や迷いがなかった訳ではない。だが恐怖や迷いを超える神の声をイエスは持っていたのだ。アダムとイブの話、アブラハム、モーセの物語に続き、聖書という書物は「あなたは誰の言葉に耳を傾けるか?」という命題を私たちに突きつける。  あなたは今日、誰の声に耳を傾けているだろうか?権力者たちの声か、自分が所属するコミュニティーの権威者の声か?生き残る為に自分を押し殺して、従いたくない者の声に従い嘘の毎日を、いや今を生きていないだろうか。この雑音の多い世界、恐怖と不安のニュース、他人の勝手な評価、不確かな声に私たちは流され、神の声を選び取る事などできないかもしれない。  だがその前に神を選べない私たちの事を神が選んでいる。今日、教会に集う者に、この礼拝に繋がる全ての者を神が選び、命の声を響き渡らせている。だから安心して迷い、安心して怯えよう。その時にこそ揺るがない神の命の声は確かに私たちに届くのだから。


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