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「主の愛のぶどう園」2020年9月20日

聖霊降臨後第16主日

聖書箇所:ヨナ書3章10-4章11節、フィリピの信徒への手紙1章21-30節、マタイによる福音書20章1-16節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなた方にあるように。アーメン

 大阪の西成区にあります釜ヶ崎は日雇労働者の方々が暮らす街です。私も神学生のころ、そこでの働きを経験しました。その地域で亡くなった方や大阪市内の路上でなくなった方々を覚えての慰霊祭を行っています。そこで活動されている、フランシスコ会の司祭で、本田哲郎氏は次のように言っています。

   私は慰霊祭の司式をするので祭壇のところにいました。そこへ一人の労働者がやってきて、ポケットから五百円玉を突き出し、

  「おっ、両替してくれ」とわたしにいうのです。「なんだ、こいつは」と思いました。慰霊祭でみんながしんみり祈っているという

  のに、何を考えてるのかと、ついことばが乱暴になって、「なにすんの?」ととがめたわけです。するとその労働者は頭をかきなが

  ら「わしなぁ、五百円玉一個しか無いねん。名前見てたら、わしの連れが死んどる」。だから、お供えしたい。だけど明日仕事があ

  るかもしれないから、朝飯代だけは取っておきたい。それで「両替してくれ」といったというのです。

   わたしは頭をガツンとなぐられた思いで、恥じ入りました…。

                                  (本田哲郎『釜ヶ崎と福音』 岩波書店 2007年 7頁。)

 目の前の状況において、よく事情がわからず、誤解してしまった…。「ガツン」というまではなくても、大きな衝撃を経験することは多々あると思います。主イエスの譬え話は、聞く相手の記憶に残るように、いつも極端な形でお話されています。その極端さとは、当時の宗教的な考えを持っている人々にとっては衝撃的でした。常識や通常感じることを大きく覆すようなものです。

 今日の箇所の少し前を観てまいりますと、私たちの普通抱く感覚と、主の世界は違うようです。普通、と言いましたが、何が普通と言えば、私たちの生きてきた経験のなかで、世の中やまた、子供のころ大人に示された何かしらの基準やモデルを刷り込まれています。その刷り込みによる価値観などをもとに私たちは、自分なりに「普通」と表現しているのかも知れません。例えば、私たちの生きている世界で、偉い人とは、社会的地位もあり、それにともない経済的に豊かな人でしょうか。有名で誰からも称賛されている人でしょうか。主イエスの弟子たちは、そのような人は、天国でも偉い地位に就くはずである、と考えていたのかも知れません。また精一杯努力して、よい行いも積んできた人こそが救いに与かれると思い込んでいたと思います。

 しかし、マタイによる福音書の18章では天の国で一番偉いのは、近くに居て、呼び寄せたひとりの子どもでした。主イエスは、その子を弟子たちに示して「自分を低くして子どものようになるものが天の国で一番偉いのだ」(マタイによる福音書18章4節)と言います。弟子たちは、自分たちの常識、普通という概念が「ガツン」と打ち砕かれるのです。

 また「迷い出た羊」の譬えでは、迷出た1匹の羊のために神様は探し求めてお救いになることを示されました。律法を周囲の人のようにきちんと守っている者だけが救われる。そこから外れて神から離れ迷う者は救われない…。そんな常識を打ち破るのです。迷い出た罪びとだからこそ、主は探し求めて連れ帰ってくださる愛の神であることを示されたのでした。

 神様の視点は、私たちの人間の常識を大きく逸脱して、いつも愛に根差していることを主イエスは一貫して述べているのです。ですからたとえ話の中では、要は弟子たちにとっても、私たちにとっても、「ええ、それはあんまりではないですか…!」と心の中で叫ばせるようなものも含まれています。今日のぶどう園の労働者の譬えは、まさにそのひとつです。

 今日の聖書の箇所の譬えは、朝と昼、午後と夕方、それぞれの時間帯に仕事を待ち望んでいる人をとある主人が自分のぶどう園で働かせるのです。しかし、私たちや弟子たちの心外なことは、どの時間帯で働き始めた労働者も同じ労働報酬であったということでした。1デナリオン、これは一日分の賃金なので、今でいうと一万円くらいでしょうか。朝から働いていた人は、当然不満をぶつけます。暑い中、朝から働いていて一万円(推定額ですが…)。でも夕方にやってきて、1時間しか働いていない人も1万円。時給換算すると割に合わないと、不満をぶつけるのです。私たちの感覚では常識です。しかし、神様の視点は違ったのです。

 今日の第1の日課はヨナ書です。ヨナもまた同じような不満を神様にぶつけます。ヨナは預言者として、神様に招かれますが、悪の都ニネベに行くことを拒絶しました。なぜなら、そこで罪の悔い改めを説くことはヨナ自身の命の危険があったからでした。割に合わないとヨナは逃亡をしますが、大きな魚に飲み込まれてしまいます。ヨナは魚の腹の中で主に祈り、主と向き合いました。主によって魚から吐き出されたヨナは、ニネベの都に入ります。そして神の預言を一日かけて説くのです。彼の予想に反してでしょうか、ニネベの都の人々は王様まで悔い改めて悪の道から全員離れるのです。そして神様は滅ぼすことを思いなおされ、赦します。神様はいきなりニネベを滅ぼすことなく、ヨナを派遣しました。その都に住む人々の悔い改めを待ち望む神様の愛が根底にあったのです。

 しかし、ヨナは今日のぶどう園に登場してくる一部の人たちのように神様に不満をぶつけるのです。怪しからん人間には制裁を。そんな気持ちが次のようにヨナの心を襲ったのです。

   ヨナにとって、このことは大いに不満であり、彼は怒った。彼は、主に訴えた。「ああ、主よ、わたしがまだ国にいましたとき、

  言ったとおりではありませんか。だから、わたしは先にタルシシュに向かって逃げたのです。わたしには、こうなることが分かって

  いました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。主よどう

  か今、わたしの命を取ってください。生きているよりも死ぬ方がましです。」主は言われた。「お前は怒るが、それは正しいこと

  か。」

                                                   (ヨナ書4章1~4節)

 神様は人を滅ぼす制裁よりも、罪人であろうが、家畜であろうが、生かされているすべての存在でさえ、惜しむことなく救われることを望んだのでした。それどころか、深い愛を強くお示しになられたのです。

 今日の福音書に戻りますが、主は愛をもって約束通り、つまり契約通りに賃金を支払いました。誰も損はしていないのです。どの人たちも同じように、主は支払って、その日の糧を得るようにしてあげたいのだ、という愛に基づく根拠で語るのです。

 そして、この賃金への不満を「救い」に置き換えたら、いかがでしょうか。例えば「私は早くから、子どものころからクリスチャンで神様を信じてきた。しかし、あの人はだいぶ大人になって信仰が与えられて、クリスチャン生活が短い。なのに自分と同じように救われるとはおかしい…」。こんな理論になってくると、いよいよおかしいと感じるのではないでしょうか。

 また、ぶどう園での労働の話を戻しますが、もし自分が朝から働いていたとしましょう。生活のために家族のために働いていました。夕方に自分の年老いた両親が雇われてきて、大きな負担なく、同じように、同じ賃金を受け取ったら、私たちは怒るでしょうか。むしろ、家族みんなで「得したね」と互いに喜ぶのではないかと思うのです。身内なら不満はないけれども、他人には不愉快に感じる。

 その概念は私たちの「常識」というものの中に静かに、根強く刷り込まれています。そして他者への愛への眼差しでは、目を限りなく暈(ぼか)していくのです。そして神様のみ心と、自分の「常識」とがやがてすり合わなくなってくるのです。

 そして、先ほど紹介した、大阪釜ヶ崎の労働者のような方が、夕方にぶどう園に来て、賃金を得ることができたらどうでしょうか。明日の朝ごはんに困ることなくよかった、と思いたいものですが、主はまさにそう喜ばれるのです。明日も生きていかねばならない人が、今もこの社会におられます。明日生きていくことができずに、天に召されている人が今日もおられます。そして深い悲しみを抱えて、500円玉を両替するような思いでも祈りをささげたいと願う人々がおられるのです。神様がそのような人々の側におられるのです。先に居たくても、どうあがいても先に居ることができない。そのような貧しく小さな者とされた側にいる神なのです。

 ですから救いと豊かさはまず自分から与えられるべきだ、と思い込んでいた当時の宗教的概念をもっていた人々に対して「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」(マタイによる福音書20章16節)と主は言うのです。救いから遠く離れていると見なされた人に、主がまず先に来られるということです。そのような主の愛のぶどう園に私たちは置かれているということなのです。

自分と同じように神様のみ手が差し伸べられた。賃金にせよ、糧にせよ、救いにせよ、神様の守りと導きがあってよかったね…。

 そう思えるような世界でしたら、どうでしょうか。特に、新型コロナウィルスの感染の影響で、失業で苦しむたくさんの人々に対して、日々の糧が得られてよかった。みんながよかった、と言える社会になることで、神様の国がこの地上で築かれて行くのではないでしょうか。

 弟子たちやヨナや、そして私たちに神様が示されるみ心は、一人でも多くの人が主の愛と明日の「生」が与えられることです。自分の損得よりも、もっともっと大いなるものがある。それを改めて示されるのです。今の深刻な問題を抱えている私たちの国に、世界に今日示されています。その主のみ心と深い愛が与えられていることを覚えて行きましょう。



望みの神が、信仰からくる あらゆる喜びと平安とを、あなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。 アーメン 

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