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「主の道をまっすぐに」2020年12月13日 田中博二牧師

待降節第3主日

聖書箇所:イザヤ書61章1-4,8-11、テサロニケの信徒への手紙一5章16-24、ヨハネの福音書1章6-8,19-28


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなた方にあるように。アーメン


待降節第3主日の礼拝を私たちは守っています。いよいよ来週はクリスマス主日を守り、救い主イエス・キリストのご誕生をお祝いするときとなります。待降節ではずっと旧約聖書イザヤ書が読まれてきましたが、先週の日課イザヤ40:1節以下ではこう歌われていました。

「慰めよ、わたしの民を慰めよとあなたたちの神は言われる」

これは直接、主なる神ご自身がエルサレムの民に向かってお語りになられるということです。

神ご自身が、わたしの民よ、と呼びかけられるのです。それは、わたしの民にこころからの慰めを語り伝え、いまや苦しみのとき、試練のときは終わりに近づいたことを告げなさいと言われるのです。この慰めのことばは、実際にエルサレムの民が経験した出来事でありました。数十年にわたってイスラエルの民は遠くバビロンに連れていかれ、囚われの身となりました。それは本当に困難な苦しい年月であったことでしょう。バビロン捕囚として知られています出来事ですが、その民全体に及んだ試練、困難がようやく終わりを告げる。その苦難の歴史にピリオドが打たれる。その時に向かって、慰めのことばが与えられるのだと預言者は語るのです。イスラエルの民にとって、この出来事が如何に大きいものであったのかは、繰り返し繰り返し、聖書のことばとして残されていることからも分かります。


そしていま、クリスマスを前にした私たち、津田沼教会に集う私たちに対しても、この慰めのことばが語りかけられるのではないでしょうか。「慰めよ、慰めよ、わたしの民を慰めよ、とあなたたちの神は言われる」と語ることが赦

されるのはないでしょうか。主なる神のことばは、いまもわたしたちに対しても直接に与えられていくのです。わたしたちの今の困難と試練とに対して、神様の慰めのみことばが確かに響いてくるのです。それはクリスマスの喜びを前にして、備えをなすものたちへの招きのことばでもあります。

これまで、思い悩む日々を通ってきたが、いまや救い主の到来へと目を上げていくようにと招きのことばを語るのです。聖書の民が繰り返し繰り返し、神様のみこととばによって、立ち上がり前進していったように、わたしたちもまた、神のことばに支えられ、新しい日へと進んでいくということです。


さて今日のヨハネ福音書1章のところでも洗礼者ヨハネのことばを通して、慰めのことばが語られ、ヨハネ自身の働きについて28節にこう示されるのです。ヨハネは、預言者イザヤのことばを用いてこう言います。

「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。主の道をまっすぐにせよ」と。

洗礼者ヨハネは、主のために荒れ野に広い道を通せと預言したイザヤの跡をつぐものであり、主なる神へ至るための道備えをするものだと語るのです。

イザヤが、谷は身を起こし山と丘は身を低くせよと語りついだことを更にすすめて、主の道をまっすぐにと言うのです。そして実は、これは荒れ野に道をつくるということは、私たちのこころのなかに道をつくる、主なる神が通られ

る広い道をつくるということであります。わたしたちはどうしても、神さまに至る道をつくることは難しく、思い煩いや自らの慾のため道を閉ざしてしまうものであります。自分のちからで、その道を開いていくことには絶望しかあり

ません。


イザヤが語る荒れ野を通る道とは、当時の王さまが通っていく行進するための道でした。しかし洗礼者ヨハネが示すまっすぐな道とは、救い主イエスさまへ至る道であり、かえって主イエスご自身がおいでくださる広い道であるとい

うのです。そうです、み子イエスご自身が私たちのもとへ来てくださる、広いまっすぐな道が通っていくと言ううれしい知らせを受けるのです。

 

洗礼者ヨハネは荒れ野に現れて、罪のゆるしを得させるために悔い改めの洗礼をのべ伝えました。彼は神から遣わされた人ではありましたが、まことの光ではなく、光について証しするためにやってきたというのです。彼は、自らの

働きを荒れ野で叫ぶ声であると告げるのです。声というものはそれ自身、実体のあるものではありません。声となって指し示すものがあって初めて、その働きをなすものです。声は発せられるとそのあと、すぐに失われてしまいます。

失われた声は二度と戻ってくるものではありません。しかし、荒れ野の叫ぶ声を通して神の救いの出来事へ立ち返り、救い主なるお方の到来へこころを向けていくものになるのです。主のもとにまっすぐな広い道がしかれ、み子イエスのお迎えする備えをなしていくのです。


さてヨハネ福音書1章14節では、「ことばは肉となって、わたしたちの間に宿られた」と主のご誕生を表しています。本当に、不思議な神の出来事が起こったというのです。神のみ子がひとりの人間イエスとして、わたしたちのと

ころにおいでくださった、その奇跡の出来事に私たちは接し、喜びをもって信じるものとされるのです。

どんなにか偉大な出来事であり、ただ信じるしかない神の愛の出来事であることを思わされるです。

 

今日の使徒書では、第1テサロニケ5章のみことばが示されていました。16~18はこうあります。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」

このパウロのことばは私たちにとってどうでしょうか?少々、無理ではないか、と思われるでしょう。わたし自身もそう感じます。

しかし、クリスマスの奇跡の出来事、人間の思いでは考えることが出来ないことの前では、今日のこのパウロの勧めのことばも分かるような気がします。それは、神のみ子イエスが人間のすがたを取って、私たちの世界に宿られたという聖書の出来事に比べれば、はるかに容易いことにように思えるのです。クリスマスの喜びを前にすると、いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさいというパウロの勧めが本当にふさわしいものとなるのです。どんなことにも感謝

しなさい、ということばも、み子イエスさまに捧げる祈りのことばとなるのではないでしょうか。それほど大いなる神の愛の出来事にわたしたちは出会うことになるのです。こころから御子のご誕生へ備えていきたいと思うのです。


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたのこころと思いとをキリスト・イエスにあって

守るように   アーメン

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