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「仕える者になりなさい」2021年9月19日 田中博二牧師

聖霊降臨後第17主日

聖書箇所:エレミヤ書11章18-20、ヤコブの手紙3章13-4章3,7-8a、マルコの福音書9章30-37


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなた方にあるように。アーメン


先週、マルコによる福音書8章後半のみことばを通して、イエス様のお働きが中間点を超えて、十字架の道へと歩み始められたことが示されていました。イエス様の活動の中心地でありましたガリラヤの地から、十字架の場所、エルサレムへと進み行かれることになります。

そして、その旅の途上にて、イエス様は一緒にいる12弟子に向かって、従う者としてのあり方について教えてくださるのです。教育の原点というものは、良き師弟愛だ、と言われます。良い先生と従う弟子という良い関係があれば、学びは深まると言われます。かって、ギリシャの哲学者たちは、互いに学び教え合うことを、町のはずれの道を歩きながら語りあい、深めていったと言われています。今日の大学のゼミや合宿なども、そういう学びを深めていくあり方を取っているのでありましょう。

 

さて、今日のマルコ9:30節で、「一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった」とあります。この時、すでにイエス様の第1回目の受難予告が語られていたのでした。そして、一行はガリラヤを通って、湖の町カファルナウムにやってきました。そこには、シモン・ペトロの家があり、イエス様によるみことばの伝道の出発点でもありました。そして、家に着いてから、イエス様は弟子たちに「あなたがたは旅の途中で何を議論していたのか」とお尋ねになりました。

しかし、弟子たちはイエス様の問いに応えることなく、黙っていたというのです。その理由として、弟子たちは旅の途中で「だれが一番えらいのか議論しあっていた」ということです。イエス様の前で、自分たちが話し合っていたことの内容を恥ずかしく思っているのです。


「誰が一番えらいのか」、この問いはおのずと一定のグループ内で出てくるものでしょう。何人かが集まれば、どうしてもその中でのリーダー、主導権を取る人が出てくるのは当然のことでしょう。それは12弟子であっても、仕方がないことかも知れません。興味深いことに、すぐ前のマルコ9章のところで、高い山の上でイエス様のお姿がまっ白に変わるという変容の出来事が記されていました。その際、一緒に登ったのがペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人だけでした。この三人が特別に選ばれたと思ったのかしれません。そして、そのあと、悪霊に取りつかれた男の子を癒して下さいとの願いを受けて、弟子たちが悪霊を追い出すように働いたのですが、結局、誰も追い出すことは出来ません。

イエス様はその後、「祈りによらなければ決して追い出すことは出来ない」とお語りになります。弟子たちの信仰の弱さを指摘なさいます。12弟子が、この時誰が一番えらいのか、と議論しあっていたのは、そういうことの延長線上

にあるのでしょう。

 

さて、イエス様は弟子たちを集めて、お話をされます。35節には「イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた」とあります。ここで、イエスが座り、とありますが、これはイエス様が弟子たち一同を集められて、主の権威をもってお語り下さるというのです。マタイ福音書5章の山上の説教の場面でも、「イエスはこの群衆を見て山に登られた。腰を下ろされると弟子たちが近くに寄ってきた。そこで、イエスは口を開き、教えられた」とあります。

主の権威をもって、人々を集め、その真ん中に腰をおろし、お座りになって、みことばをもって教えてくださるのです。良き師であるイエス様と従う弟子たちの関係がそこにはあります。弟子たちをいつくしみ、神への信仰に生きる

ようにと招いてくださる主イエスのお姿がそこにあります。

そして、この時、すでに第一回目の受難予告が弟子たちに与えられていたことも、わたしたちは知っています。主イエスは語られました。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日ののちに復活する」と教えられました。そして弟子たちにこう告げられます。

「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」。

 

この第一回目の受難予告を聞いた時、弟子たちは驚き、恐れて真剣にイエス様のみことばに聞き入ったことを思わされます。イエス様のみこころはどこにあるのか、主が進み行かれる所は一体どこなのか?種々思い悩み、共に考えあ

ったことでしょう。そして、イエス様の目的について、そしてそれは弟子たちの目的でもあるのですが、色々と考え話し合っていたのでしょう。

しかし残念ながら、弟子たちの真剣な思いは長くは続きませんでした。主と一緒の伝道旅行の合間にも、その思いは失われてしまうのです。以前の弟子たちの姿に戻るのです。それは結局、みんなの中で誰が一番えらいのか、誰が最

も大きい能力を持っているかを、互いに自慢することになってしまうのです。

弱い人間です。すぐに本質的な所から離れてしまう信仰の弱い者であることを知らされるのです。わたしたちもまた、そうではないでしょうか。真剣に考え、熱心に問うこともあります。しかし、それが長くは続かない。すぐに忘れて、誰がえらいのかという自慢比べになってしまうことが起きるのです。

このとき、イエス様から「途中で何を議論していたのか」という問いの前に立たされるのです。そして、主のみ前で、みことばに耳を傾けていく者へとされるのです。

イエス様がお座りになり、弟子たちを呼び寄せて言われます。「いちばん先になりたい者はすべての人の後になり、すべての人に仕える者となりなさい」。すべての人の後になる者、謙遜な者になりなさい、と教えてくださいます。

 

山に登るとき、真のリーダーは一番後ろの場所を取り、一行の歩み全体に目を注ぎます。列の一人ひとりの歩み方、疲れ具合にこころを傾け、安全に目的地に着くよう努めるのです。そのように一番うしろを歩く者となりなさいと言われるのです。また、仕える者とはイエス様がよく例えてくださる給仕をする人を思わされます。食卓で料理を運んだり、食器を整えたりする人です。彼はもちろん、自分が食事の席に着く者ではなくて、食卓を整え給仕をするために働く者であると教えてくださるのです。高齢の方々のため、身体にハンデーがある方々のため働くディアコニアに通じるものでありましょう。

そして、そのことを弟子たちが良く良く分かるように、イエス様は幼子を彼らの真ん中に立たせ、抱き上げてお語りになられます。「わたしの名のためにこのようなこどもの一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」。

イエス様に従う者として一日一日、真剣に生きるということを思います。自分の思う通りにならないことが多くあります。忍耐をもって共に生きることを求めていくことがあります。自分では受け入れられないことがあっても、イエス様に祈りつつ、示される所に進んでいくことが必要な時があるのでしょう。

私たちは将来への希望を持って進んでいます。しかし、それがうまく行かないことがたびたび起こるのです。外からの要件であることもあり、また自分の内から出てくることであることもあります。いずれにしても、自分の行動のスケジュールに固着するのではなく、祈りつつ、主イエスのみこころに従っていくように招かれています。

主イエスが共にいてくださり、み力を与えてくださるよう、備えていきましょう。


どうか、恵みの神が信仰から来るあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを恵みにあふれさせてくださるように。  アーメン





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