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「僕となられた主」2020年9月27日

聖霊降臨後第17主日

聖書箇所:エゼキエル書18章1-4節,25-32節、フィリピの信徒への手紙2章1-13節、マタイによる福音書21章23-32節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなた方にあるように。アーメン

 遠藤周作氏の作品に「沈黙」があります。皆さんの中には著作を読まれたり、映画でご覧になった方もおられるでしょうか。私は昔、小説の方も読みましたが、映画ではマーティン・スコセッシ監督のものを観ました。小説と映画では、印象の違いなどはあるかも知れませんが、作品の内容は江戸時代初期、島原の乱の後の長崎を舞台としています。

 イエズス会の高名な司祭フェレイラが、宣教している日本でキリスト教を棄てた、という知らせがローマに入ります。それは日本での過酷な弾圧によるものでした。

 彼の弟子の司祭ロドリゴとガルペは、日本人のクリスチャンのキチジローの案内で、マカオ経由で、密かに日本に入ります。五島列島に潜入した彼らは隠れキリシタンの人々の熱烈な歓迎を受けて、宣教をしていきます。やがて、マカオからの案内人であるキチジローの裏切りで捕まり、長崎奉行所に連行されます。そこで、ロドリゴの想像を絶する信徒たちの拷問と殉教していく姿を見せら続けられていくのです。殉教していく信徒と共に仲間の司祭のガルペも命を落としていきます。ロドリゴは自分の尊敬していたはずの司祭フェレイラがキリスト教を棄てて、日本人として生活をしている姿に絶望します。彼の目には絶望が満ちた世界だけがありました。フェレイラも棄教をするように理論的に説得してきます。仲間の死や日本人信徒たちの迫害の姿を絶え間なく目の当たりにしていきます。ロドリゴが牢にいるとき、夜中遠くから響いてくるいびきのような音は拷問を受けている多数の信徒たちの声でした。それらの過酷な状況に置かれた彼は、精神的に追い詰められていきます。

 やがて、彼は踏み絵を前に、彼は自分の信仰を守り通すべきなのか、それとも踏み絵を踏むことで、拷問に苦しむ仲間を助けるべきなのか、を迫られて行きます。長崎奉行所の中庭で、踏み絵を前にしているとき、踏み絵に刻まれている、十字架につけられているキリストが彼の心に次のように語りかけるのです。

 「踏むがいい。踏みなさい。私は踏まれるためにこの世に生まれ、お前たちの痛みを分かつため、十字架を背負ったのだ…」

 そして彼は踏み絵を踏むのでした。彼は主が迫害の間も沈黙されていたのではなく、共にいて苦しみの中にいて下さったことも悟るのです。

 さて、今日の福音は、主イエスが神殿の境内で人々に教えておられるとき、祭司長たちがやってきて主と問答をする場面です。この箇所の少し手前では、主が神殿で商人を追い出しました。祭司長たちにしてみれば、自分たちの縄張りで主がされたことに憤っていたのでしょう。主に何の権威があってそうしているのか、と問いた出すのです。祭司長たちのような宗教的指導者たちは、「自分たちこそ、制度的にも伝統的にも宗教的な権威がある」と思っていました。それなりの学問も修めて、社会的に地位も確立していることも通しての自負もありました。

 だからこそ主イエスの権威を認めることはできません。主イエスは、学問も積んだことは世間的に知られていません。社会的に自分たちが認定しているわけでもない…。それにも関わらず、主は病気の人々を癒してきました。

 「何か差し障りがあるのは罪があるに違いない、という当時の価値観を覆して、主は癒しを通して罪を赦している。宗教的儀式を経ることなく、罪をも赦している。神の領域を侵し、冒涜する行為だ」と彼らは考えていたのです。また彼らは「罪の赦しは神殿を中心としている。自分たち宗教指導者の仲介を通して、神殿でささげものを携えて、儀式などの手続きを得てからでないと神からの罪は赦されない」という考えに埋没していたのです。ですから、自分たちの考える儀式と手続きから外れて、神の権威とも言える罪の赦しをされている主イエスをどうしても認めることはできなかったのでした。自分たちの権威を無視している憤りとこれからの主への迫害の、よどんだ黒い闇のような思いに心を支配されていきました。

 そして、そのよどんだ心の闇とそこからくる憤りは、主を十字架へと向かわせることになったのです。神のみ子を、神そのものである主を、自分たちの閉ざされた執着と権威で、十字架に追い詰めていくのです。愛とは程遠く、憎しみで…。

 そして今日の箇所では主に問い詰めます。

  「イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。『何の権威でこのようなことをし

 ているのか。だれがその権威を与えたのか。』」

 主はその問いに応答することなく、ある意味沈黙して、そして彼らに問いで切り返します。彼らの論じ合う場面も次のように記されています。

   イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、

  あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」彼らは論じ合っ

  た。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。『人からのものだ』と言え

  ば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから。」そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。

                                            (マタイによる福音書21章24~27節)

 洗礼者ヨハネのしたことは神殿を中心として儀式を通していませんでした。そしてヨルダン川で人々の悔い改めとその罪の赦しの洗礼をしていました。むろん、宗教指導者たちからすれば、神の権威ではなく、洗礼者ヨハネの人間としての勝手な行為にしか見えません。そして彼らは立場上、洗礼者ヨハネのことが気に入りません。しかし、大勢の群衆の支持を洗礼者ヨハネは得ていました。そしてヘロデ王の腐敗政治を、ヨハネは正義をもって糾弾して、処刑されました。

 自身の正義を貫いた洗礼者ヨハネ。


 その民衆の支持を得ている彼を祭司長たちが貶せば(けなせば)、今度は自分たちの支持率が下がり、立場が危うくなります。だから、主イエスの問いに「わからない」としか答えられなかったのです。自分たちの立場を守るために、また混乱したのか、互いに論じ合い、損得勘定も含ませて、折り合いをつけた答えが「分からない…」でした。

 「主イエスは、本当はどなたなのか…」という問いは、彼らにはもはや微塵もなかったのです。儀式や多くの手順など、条件がさまざま揃えていないと神の赦しが得られない、という誤った彼らの考え…。

 洗礼者ヨハネは、前もって示してくれたのは、主イエスの本当の存在でした。どんなお方なのか…。キリストという、私たちのすべての罪を赦してくださるお方でした。それは私たちの救いのために、今日のフィリピの信徒への手紙で示されているようにご自身を無にされたのです。踏み絵のごとく踏まれるように、多くの苦しみを受けて十字架への道を従順に歩まれたお方だったのです。そして、主は十字架の死を経て、復活しました。そしてそのあとで、今日皆さんでお読みしたマタイによる福音書の最後で、こう約束されるのです。

   わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と

  子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、い

  つもあなたがたと共にいる。

                                           (マタイによる福音書28章18b~20節)

 天と地のすべての権能を授かり、すべての罪を赦してくださる主。それはすべての人の僕となり、仕えて、すべての人の罪を赦すために十字架にかかられたお方でした。私たちを救い、愛するために来られた僕だったのです。

 その事実があるなか、私たちは常に問いに立たされます。

 自分はどのような存在なのか。善人か悪人か?

 正義に満ちた者か、それに逆らう者か?

 常に正しい者か、そうありたいと願いながらもなかなかできない者なのか?

 いやいや…、パウロの言うように正しい者ではなく(ローマ3:10)、私たちが罪人であるとルターが言うからにはそうなのだろうが、でもそれで開き直り続けていいものかどうか?

 「沈黙」の作品のように、踏み絵を最後に踏んでしまった司祭ロドリゴのような存在なのか?

 裏切りのキチジローのことを平然と非難できるのかどうか?

 踏み絵までは踏んではいなくても、主の約束を疑っていないではないだろうか。日々神さまにすべてお任せして、信頼しきれているのかどうか?

 …そして神様から心が離れるときがあるのではないだろうか?

 心の中で限りなく、問いがあふれ出して、その納得できる答えは見出せません。  

 しかし、たとえ、主への約束を忘れて、心が神さまから離れる時でさえも、主は言うのです。神様への強い思いがあるにも関わらず、踏み絵を踏むような心になってしまったとしても主はこう言うのです。

 踏むがいい。踏みなさい。私は踏まれるためにこの世に生まれ、

 あなたたちの痛みを分かつため、十字架を背負ったのだ…。

 わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。

 だからそのあなたの今の痛みを私はよく分かっている。

 あなたは私の愛する子。私の心にかなう者。

 僕となられた主イエス。それは踏まれても、十字架につけられてもなお、私たちの問いと葛藤と、そうさせる状況や環境のただ中におられる方です。世の終わりまで共におられる私たちの主なのです。そのような主がいつも私たちと共にいてくださる。心の葛藤や重荷を沈黙のうちに担ってくださるお方です。そのことを覚えて行きましょう。

望みの神が、信仰からくる あらゆる喜びと平安とを、あなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。 アーメン 

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