top of page

「十字架を背負って生きるなんて」2022年9月4日 関野和寛牧師

聖霊降臨後第13主日

聖書箇所:申命記30章15-20節、フィレモンへの手紙1章1-21節、ルカによる福音書14章25-33節


聖書を通してイエスは「私について来たい者は自分の十字架を背負ってついてこい!」と五回ほど言っている。

十字架はローマ式の死刑道具であり、犯罪者を痛めつけ、最後は裸にして十字架にかけさらしものにして、

時間をかけて息絶えさせるものである。かつ、十字架刑を宣告された死刑囚は自分がかけられる十字架を自ら背負って処刑場まで、行かなければならいのだ。

「自分で自分の十字架を背負う」という宣告は「この世界で最大の苦しみと、痛みと恥を受けろ」と言われているのと同じなのだ。そして、イエスは自分について来ようとする弟子や群衆たちに向かって言い放ったのだ。

クリスチャンとはキリストを信じ、キリストについて行く者の事である。だがイエスはクリスチャンの条件を「自分の十字架を背負ってついてくる覚悟のある者」であると言い切った。そればかりか「自分の命を捨て、家族を憎むほどの覚悟がなくてはならない」とも言ったのだ。

「救われる為には、何もかも捨てて、付いてきなさい」もはやカルトの世界である。私たちは、このような強烈なイエスの言葉を薄めてしまう。そして信仰を自分勝手に解釈し十字架と距離をとる。

こうやって十字架を前にして礼拝するのであれば問題はない。聖書を開き、イエスの声を聴くのもよし。

だが、今日を生きるこの私が何もかも捨て、自分の命を惜しまず、そして全ての痛み、苦しみ、恥である十字架を背負おう事など到底できない。そしてそれをしていないにも関わらず、誰かにそれをせよという事もできない。

この現実を直視する時、自分がクリスチャン、更には牧師だなどという事ができなくなる。このイエスの教えを守らず、十字架など背負わず、遠巻きに見て、十字架を教えている自分が極めて滑稽にさえ感じる。

それなのに何故、それでも私は今日も十字架の前に立ち、聖書を開き、それを人に伝えようとしているのだろうか。

前にも語ったが、強烈なイエスの言葉は整合性を求め、研究者の視点で読んでも全く理解できない。


そうではなく、このような「自分の十字架を背負え!」というような刃物のような言葉こそ、神の子、そして人間イエスの感情を感じ取らなければ理解できない。

特にルカ福音書でイエスはこの言葉を群衆を振り払うかのように言い放っている事に気がつく。

最初に言ったのはイエスが5つのパンと2匹の魚を増やし、5000人以上の飢えた群衆に食事をさせて後だった。

皆、超能力を見て、イエスをあがめ、ついて来たのだ。だがイエスは超能力者、何かを与える救い主としてついてくる者をことごとく振り払った「私についてきたい者は自分を捨て、日々、自分の十字架を背負ってきなさい」と。


そしてこのルカ14章では、安息日、治療行為をしてはならない日に、イエスは罪人扱いされていた病者を癒やした。この出来事は瞬く間に人々の耳に届き、イエスは時の革命家のように求められた。

「自分も癒やしてもらえる」「この人なら私たちを貧しさから救ってくれる」誰もがイエスに幻想を抱いたのだ。

だがイエスはそのような幻想、勝手な期待をかき消すように言い放ったのだ

「私はそんなものの為に来たのではない!」「十字架を背負い、自分や家族を失う覚悟があるのか!」と。

宗教家や法律学者と対峙しイエスは彼らを何度も退けたが、その言葉の刃は民衆にも向けられたのだ。そして聖書を

開く私たちにも向けられる。

そしてその刃の中にあるイエスの魂の叫びに耳を傾ける。別にイエスは、人々に自分の利益や大切な人間関係までも

断ち切る世捨て人になって欲しいと願っているわけではない。

そうではなく、既に自分の十字架に向かって居たイエスが誰の為に、何の為に世界に来たのかを分かって欲しかったのだと思う。


14章では「中途半端な奴は来るな!」と叫ばんばかりに人々を遠ざけつつ、15章ではイエスは「私は迷い出た1匹の羊を99匹の羊を置いてでも探しに行く」と言う。人々を追い払いたいのではなくて、イエスは命がけで迎えに来ているのである。そしてイエスは目に見える救いを与える神ではなく、自分の命を与え、罪人、病者、弱気ものへ生きる力、

命の価値を与える神なのである。

その為にイエスは十字架に向かった。そして十字架だけではなく、私たちの全存在をも今日背負っている。

「自分の十字架を背負ってついて来なさい」という声はこのイエスの命がけの愛があなたに届いているかという

問いかけであり、そして命がけのイエスの愛が届いたならば、今日を一緒に生きないかというイエスからの招きなのではないだろうか?

bottom of page