top of page

「友だち百人より親友一人の方が良い」2021年12月19日 関野和寛牧師

待降節第4主日(クリスマス主日)

聖書箇所:ミカ書5章1-4a、ヘブライ人への手紙10章5-10、ルカの福音書1章39-45


「メリークリスマス!(良きクリスマスを)」と私たちは声をかけ合うが、一体何を祝っているのか。特に教会では神の子イエス・キリストの誕生を祝っている訳だが、私は地獄のような日々の終わりを祝っているのだと思う。神の子イエスを産んだ母マリアはナザレという小さな村出身の未婚の16歳ほどの女性だった。彼女はヨセフと婚約関係にあったが、もし未婚の妊娠がバレたら、狭い村社会、家から勘当され、当時の掟によって罪人、恥さらしと石で撃たれ公開処刑にされたかもしれないのだ。神の子イエスを宿したという世界最大の祝福、でも同時にそれはこの上ないプレッシャーと苦しみになり得る。現にマリアはそれを家族や周りに伝えてはいない。言ったとこで理解されはずがないからだ。


自分で望んだ訳ではないのに背負わされる使命、そしてそれが人間の常識を超える時、人は迫害を受ける。下手をすれば命を狙われ消される。あなたにもあるのではないか。たとえ小さくても絶対的な孤独が。人の為に誰かの為にやっているのに生きているのに、それを誰からも理解されず、それでも抱え続けている孤独が。ある難病を持った娘さんを授かった母親がこう言ったことが忘れられない「治してくれとは祈らない。治らないことは分かっている。ただこの苦しみが誰にも理解されないことがただただ辛い。誰かに黙って一緒に泣いて欲しい。中途半端な言葉なんかいらない。」私たちには誰かが必要なのだ。


神の子イエスを身籠ったという前代未聞の出来事を16歳前後の少女が一人で背負えるだろうか。このマリアを支えた人物がいたそれが今日の聖書に登場するエリサベトである。エリサベトは年老いた祭司の妻であった。推定するに初老の夫人だった。名門の祭司の家に嫁いだエリサベトだったが後継を生むことがなく「不妊の女」とされていた。当時の時代ではそれは恥でもあり呪いとさえ言われた。だがこのエリサベトもマリア同様、神の霊、聖霊によって子を宿したと天使に宣言される。しかもエリサベトが宿したのはヨハネ、イエスに洗礼を授ける預言者ヨハネになると天使は言うのだ。


だがこの喜びも人には言えない。天使はエリサベトの夫祭司ザカリアにこの事実を告げるが、ザカリアは信じなかった。夫にも信じてもらえない、神に仕える聖職者に神の奇跡を信じてもらえない。これまたエリサベトにとって大きな孤独であった。エリサベトの身に起きている事を誰も信じてはくれないのだ。祭司の妻だから社会的繋がりも多かったであろう。だが初老の彼女が預言者を身籠ったと言えば、周りは彼女が気が狂ったというであろう。祭司であり、旦那であるザカリアは神を疑ったために声を失っていた。そんな夫婦は呪われている、気が狂っていると言われ、魔女狩りにさえ遭う危険さえあったのではないか。


はっきり言えばマリアもセリサベトも殺されてしまうかもしれないほどの究極的なスキャンダルの中に突如突き落とされたのである。とかくだが二人は孤独ではなかった。エリサベトはマリアを理解し、マリアはエリサベトを理解した。誰にも理解されないはずの究極の孤独とプレッシャーの中、でも彼女たちは一人ではなかったのだ。これが彼女たちのクリスマス。世界で最初のクリスマスだった。


メリークリスマス!」それは地獄のような孤独、誰からも理解されない苦しみの中、「あなたは一人ではないよ」という神からの宣言だ。イエスの名前は「インマヌエル(神があなたと共にいる)」と呼ばれた。あなたが今日持っている孤独と痛みその中に神が宿るのがクリスマスである。そして神の名の元に建てられたこの教会の中にあなたの孤独と痛みを理解している人が必ずいると私は信じている。


マリアもエリサベトも前例のない人生を歩んだ。全く一般的でない出産をした。そして彼女たちが産んだイエスもヨハネも時代と人々に消された。古今東西、社会はこれまでと違う事を言う者、行う者を消していく。たとえそれが神の子、神の使者でもそうしていく。「メリークリスマス」、私たちは今日、その続きを生きている。消し合うのではなく、光を灯し合う生き方をしたい。目の前の人の究極的な孤独の中にマリアが居て、そして私の孤独の中にエリサベトが居るのかもしれない。孤独を繋ぎ合わせて喜びとし、そこにイエスが宿るクリスマスを過ごしたい。

bottom of page