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「受け入れる者」2020年6月28日

聖霊降臨後第4主日

聖書箇所:エレミヤ書28章5-9節、ローマの信徒への手紙6章12-23節、マタイによる福音書10章40-42節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなた方にあるように。アーメン


 先日、私がチャプレンをしている母子生活支援施設「青い鳥ホーム」の新任職員の研修会があり、私は講師として研修の担当をさせて頂きました。母子生活支援施設はさまざまな事情で子どもたちとお母さん方が生活をしている施設です。「青い鳥ホーム」とこの津田沼教会との強いつながりをも伝えたく、また教会とはこういうところであることも見て頂きたく思い、先日この礼拝堂で研修会をしました。

 新任の職員の方々は皆さん、キリスト教のことをあまりご存じなかったので、キリスト教のことを分かりやすく話しましたが、その前に「チャプレン」とは一体どういう意味でどういう立場なのかもお話しました。「チャプレン」とは教会と連なる福祉施設や病院、学校にいる専従の牧師・司祭のことです。そもそも「チャプレン」という言葉はどこからきたのでしょうか。

 3世紀ごろ、ローマ軍の兵士でマルティヌスという青年がいました。今のハンガリーに生まれた彼は、クリスチャンになる決心をしましたが、父親がそれを良くは思わなかったようでした。クリスチャンが息子と接触しないように彼の父親は彼をローマ軍に入隊させます。ある日、マルティヌスがある町に入ると、裸同然で寒さに震えている物乞いが施しを求めてきました。マルティヌス自身もお金を持っていなかったので、自分が着ていた軍隊のマントを半分に引き裂いて、片方を物乞いに施しました。その晩、夢の中に軍隊のマントの半分を身にまとったキリストが現れて「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。(マタイによる福音書 25章41 節)と告げたと言われています。マルティヌスは施しの出来事と夢で主と出会ったあと、洗礼を受けて、軍隊を離れて修道院生活を送り、やがて司教になります。そして隣人に仕えて、宣教の働きに人生を捧げたと言われています。それから、後、ある小さな教会に彼のマントの切れ端と伝えられる布が保管されるようになります。「マント(capella)」にちなんで、この小さな教会は「チャペル」と呼ばれるようになり、そこで奉仕する人々を「チャプレン」と呼ばれるようになりました。(フストゴンザレス『キリスト教史』上巻 新教出版 2002年 164頁参照)。

 今日の福音では「…正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける」と主は言われます。そのなかで「正しい者」と記されています。「正しい者」とは神様の前で正しく(義であり)、救いを得ている者を意味しています。しかし、第2の日課であるローマの信徒への手紙の始めの方、第3章ではパウロはこう言いきっているのです。

 「…正しい者はいない。一人もいない。」(ローマの信徒への手紙第3章10b節)

 パウロは正しさ・義は人間が自分の力で正しい者となるのではなくて、神様の愛と働きにおいてそうしてくださる、というのです。私たちを深く愛し、そして私たちを救う主の働きにおいて、神様の前で正しい者としてくださる。救われる者としてくださる。そういうのです。

 「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」(マタイによる福音書10章42節)

 主は弟子たちに対して、「この小さき者」と言われています。しかし、さきほどのマルティヌスに主が言われたことに目を向けてみますと、寒さに耐えて物乞いをしている者もまた「小さき者」と言われています。マルティン・ルターが「私たち人間は神様の前では物乞いにしか過ぎない」と言いました。救いを求める意味での物乞いです。それは自分の力では決して神様の前では正しい者にはなれない。そして自力で救いを得ることはできないということです。しかし、だからこそ、私たちがそれを求めるとき、いや、求める前に既に救いの約束を与えてくださっている主がおられるのです。そして私たちすべてが救われていて、かつ、主のみ心にかなう者であるとしてくださっています。だからこそ、主は「互いに愛し合いなさい、互いに仕えなさい」と言われます。すべての者たちですので、主の弟子たちから苦しむ人々、私たちまで皆がマタイ福音書で示されている、「小さき者」と呼ばれる兄弟であり、同じ兄弟姉妹だからこそ互いに重んじ合うことを主は求められるのです。

 そして今日の福音のように「冷たい水一杯でも飲ませてくれるものは報いを受ける」と言われるのです。報いを受けるとは、神様の祝福を共有していくことです。日中はとても暑きいパレスチナの地域では冷たい水一杯を旅人に与えることは、小さな喜びを与えることです。主はわかりやすい譬えを用いています。私たちの他者に与える、小さな喜びにつながる奉仕はまず、祈ることから始まります。汗を流すような大きな奉仕からではなく、小さな、「水一杯」という表現で譬えられるようなことから始まります。そのような主のみ心にかなうことは、相手への愛と祈りです。そこから始まり、そのように他者に仕えていくことを通して、私たちもまた主を受け入れる者とされていくのです。

 いまの私たちの社会において「孤立」は3種類存在していると言われています。それは「家族からの孤立」、「地域からの孤立」、そして「制度からの孤立」です。この3つの孤立が重なった状態で、苦しい日々を過ごしている人がたくさんいます。年間の自死者約28,000人、看取られることなく天に召される方は年間に約32,000人であると言われています。新型コロナウィルスの感染のさまざまな影響も追い打ちをかけて、さらに状況を悪化させることでしょう。今の日本の社会の深刻な問題なのです。この三重の孤立と困窮から子どもたちとお母さん方を守り、支える働きが「青い鳥ホーム」にあることを、先日の研修を通して分かち合いました。そして「青い鳥ホーム」はこの津田沼教会と、祈りから始まる形でつながっていることをお伝えました。

 冷たい水一杯のような、小さな愛を、祈りをささげることができる。距離が離れていてもなお、主の祝福を共有している。共に神様のみ前に正しい者とされている。それらは今朝の福音での主のみ心です。キリストの体であるこの津田沼教会から、み言葉として今日も示されているのです。この地域へ、そして「青い鳥ホーム」に向けて宣教に参与していく意味において、私たちもマルティヌスから見れば、一人ひとりが「チャプレン」なのでしょうか。

 青い鳥ホームの職員の皆さんの働きと子供たちとお母さん方を覚えて、祈りましょう。そして、経済的に大変な時期において、孤立の中にいる方々をも覚えて、主の祝福と明日への糧と力が与えられることを祈りましょう。

望みの神が、信仰からくる あらゆる喜びと平安とを、あなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

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