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「地獄は永遠、救いは一瞬」2023年3月12日 関野和寛牧師

四旬節第3主日

聖書箇所:出エジプト記17章1-7節、ローマの信徒への手紙5章1-11節、ヨハネによる福音書4章5-42節


「分断を癒す」というスローガンがこれほどにまで謳われれる時代はない。私たちは分断された尽くした世界に

生きている。西と東の分断貧富の差、国や民族間の分断。宗教、宗派の分断と争い。

そして分断を癒そうと言う時、そこには既に上下関係があり、偏った見方が存在している。


聖書の時代こそ分断であった。ユダヤ人とサマリア人の対立こそがそれだ。元々一つの民族であったにも関わらず、

政治と紛争の炎に彼らは引き裂かれた。敵国に侵入され、敵国の兵士のこどもが生まれ、

その子孫とされたサマリア人たちの事をユダヤ人たちは激しく毛嫌いした。


ユダヤ人であるイエスはある日、暑い昼下がりに井戸端でサマリア人と出会う。言葉を交わし目を合わせる事さえ

避ける関係性。このサマリア人絶対に誰も水を汲みに来ない暑い時間に井戸に来ていた彼女は訳ありな雰囲気を醸し出していた。なんと過去に5回の離婚歴があったのだ。ふしだらに思われる異性関係、一度の離婚でさえ軽蔑される2000年前の文化の中、5回も離婚しそして今もなお婚姻関係にない他の男と暮らしているのである。


ただでさえユダヤ人が疎まれていたサマリア人だが、この女性は同胞のサマリア人からも徹底的に軽蔑されていたと思われる。だったら尚更ユダヤ人、神の子イエスがこの女性と交流する事などあってはいけなかった。まして同じ井戸から水を飲むなんて事は絶対あってはいけない事だったのだ。

だが二人はここで出会ってしまう。そして共鳴してしまう。


伝統的にこれは憐れみ深いイエスが炎天下の中、罪深い外国の女性を待っていたというような物語とされてきた。

敵対する民族、しかもその中のもっとも罪深い相手を赦し解放すると言うようなダイナミックな物語に

したてられてきた。だが私はそんな綺麗事ではないと思う。


女性の方から離婚ができなかった当時の状況を考えると、彼女は悪い男たちに搾取されてきた可能性がある。

その中で何度も男たちに都合の良いように扱われ、何度も失望しながらも、幾度となく同じ事を繰り返してきたのではないか。人生の泥沼にはまりながら、それでも生きる為に人が誰も来ない時間に水を汲みにきたのであろう。


そしてイエスも同じく、人生にまた自分の布教活動の旅、人々に疲れていたのではないか。「病気を癒す奇跡の先生」、「預言者!」「新しい王」断片的にもてはやされ、持ち上げられ、イエスは担ぎ上げられていた。


逆に法律家や宗教家からは妬まれ、僻まれ、叩かれ、社会を惑わす乱波者扱いされ、ずっと付き纏われ、発言や行動を監視されていたのだ。そしてその中で自分を守ってくれるはずの仲間、弟子も多くいた。だがイエスの宿命、十字架で罪人となって人の罪の為に死ぬという事など誰も理解できない。つまりイエスは活動すればするほどに孤独になっていくのだ。


いつも何かを求めて民衆がついてくる、そして自分を狙う権力者たちが追いかけてくる。

そんな息苦しさの中、イエスは弟子たちからさえ離れて一人になり、水の一杯でも飲みたかったのではないか。

そう、つまりイエス自身が身も心もカラカラに乾いていたのだ。


分断の象徴でもあるような二人、だが二人とも乾いていたのだ。ヨハネ福音書でイエスが十字架で最後に語った言葉は「乾く、、、」という言葉だった。イエスは確かに多くの奇跡と鋭い言葉によって光を放った。だが同じだけ、

いやそれ以上にこの地上の在り方、人間の愛憎の中で揉まれ、最後は十字架にかけられ乾ききったのだ。


そんなイエスの目の前に現れたのは同じく人生に乾き切ったサマリアの女性だった。イエスは躊躇なくその過去に触れる。過去の離婚歴を聞くなどデリカシーがない。けれども不思議と何かを感じたのか彼女はイエスに全てを語る。

それだけでなく、イエスと彼女は互いの宗教の違い、民族と信仰の対立軸を明らかにする。サマリア人はケルジム山で礼拝し、ユダヤ人はエルサレムの神殿で礼拝する。絶対に超える事ができない、交わる事ができない分断がそこにはある。


だがイエスはその分断を「乾かせる」のだ。「山の上ではなく、神殿でもない、霊と真を持って人々が礼拝する時が来る。そして今がその時だ」とイエスは言った。この世界にたった一つの正しさや、正義などはない。あるのは人間の不完全な社会、そしてその分断と歪みの中で乾き、犠牲になる人々が居続けるということだ。


彼女はイエスに過去と現在の全ての闇を語った。そしてイエスはそんな彼女を批判など一切しなかった。逆に彼女に「井戸から水を飲ませてください」とお願いをした。乾いていたのだ。日中に誰も居ない井戸に来ていた二人は共に

人に社会に宗教に疲れ、乾いていたのだ。議員ニコデモは自分を隠せる夜の闇の中でイエスに会いに来た。だがこの二人は真っ昼間という灼熱の中の闇の中にいた。


闇は光で、光の中に真の闇がある。分断の間でどちらかを悪者にし、皆が正義だと言う側に立ち「分断を嫌そう」というその声に光はあるか。イエスは分断と敵意の中に立ち続けた。そして最後は自分を憎む権力者立ち、

そして二人の全く性格の異なる罪人と罪人の間で十字架につけられ、そこで語った「乾く、、、」と。

そして言ったのだ「成し遂げた」と。


力で支配され分断された世界、それを癒すの光ではなく、むしろ弱さと闇なのかもしれない。弱さと弱さが出会う時、人は本当に繋がり、そしてその時にこそ大いなる神と出会えるのかもしれない。



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