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「居場所のない人々へ」2022年6月26日 関野和寛牧師

聖霊降臨後第3主日

聖書箇所:列王記上19章15-16,19-21節、ガラテヤの信徒への手紙5章1,13-25節、ルカによる福音書9章51-62節


聖書の中でイエスは実に象徴的な事を語った「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。けれども人の子には枕する所もない」。ルカ福音書ではエルサレムに向かう旅人イエスを描いている。イエスには定住地がなかったし、一定の収入もなかった。村から村へと渡り歩き、そこで誰かの家に泊まり、食事の世話になっていた。だが、イエスが言った「人の子には枕する所もない」というのは物理的な定住所がないという類いの発言ではなく、もっと深い精神性、命の拠り所について話しているのではないだろうか。              


イエスはエルサレムに向かう途中にサマリア人たちの村へ立ち寄ろうとした。先に遣いをだして、その村がイエスを受け入れてくれるかどうかを確認にいった。だが、サマリア人たちはイエスたちを歓迎せず拒んだ。理由はイエスがエルサレムに向かっていたからだ。これはユダヤ人とサマリア人がそれぞれ礼拝の場所、方法が異なっていて、それが民族同士の対立軸になったいた。イエスが来て、病や貧しさに苦しむサマリア人に手を差し伸べるのであれば大歓迎されたはず。だがイエスの目的地はユダヤ人たちの礼拝の中心地エルサレム、その事だけでサマリア人たちは拒絶反応を見せるのだ。


皮肉な事にイエスはエルサレムに礼拝しにいく訳でもないし、王として就任するわけでもなかった。むしろ宗教者、権威者の手によって罪人にされ十字架で殺される為にエルサレムに向かうのである。またサマリア人に拒絶された二人の弟子ヤコブとヨハネは「天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか!?」などと言う。これは旧約聖書の中で預言者エリシャが、神に背を向けたアハズヤ王の50人の部下を天からの炎で焼き殺した場面と繋がっている。旧約の時代にはこのように敵対する相手や集団の命を奪う出来事、殺し合いの物語が数え切れないほどある。だがイエスは誰も殺さない。むしろ敵対する人々、排除された罪人とされた人々のもとへ向かっていく。だが弟子たちはそれを理解できない。自分たちを受け入れなかった不届き者たちを焼き殺したいと怒りに燃える。そして自分たちがエリアの再来と思い上がってもいる。これが聖書の現実である。イエスの弟子たちは博愛、平等の精神に満ちているわけではない。狭い正義と独善の中に生きている。


「人の子は枕する所もない」、これはイエスには寝床が無かったという意味ではない。イエスは究極の孤独の中に居続けた。弟子たちとて誰一人イエスの本当の思いを理解していなかった。エルサレムの同胞であるはずの宗教家たちには妬まれ、命を狙われた。友好を築こうとしたサマリアの村にも拒絶された。実家の村人たちも過激なイエスの生き方を理解せず「気が狂っている」と言った。イエスの十字架の貼り付け刑は身体的激痛のみならず、「誰にも理解されない」という極限の孤独、居場所のなさであったと思う。


そしてわたしたち誰しもが少なからず「居場所のなさ」を経験する。         

あなたの一番の居場所は何処であろうか。家、職場、サークル、宗教、自分が所属している場所はわたしたちの居場所となり得る。だがそれは本当にあなたの居場所なのであろうか。家族から暴力を振るわれ続け、虐待を受ける家庭、自分を押し殺し組織の上司の顔色をうかがい続ける職場は本当のあなたの居場所であろうか。表面的な部分だけで繋がり本心では繋がれていないサークル、神の愛、隣人愛を説きながらも互いを批判し合い、社会には何も働きかける事をしない宗教組織、そんな処に居ても心安まるどころか、取り繕い、自分に嘘をつき続ける苦しみの場でしかない。


以前、虐待を受けているこどもたちのもとで働かせて頂いた時に「本当の自分で居られる場所でなければホームではない」という大切な言葉を聞かせてもらった。いくら家があり、裕福な家庭で、自分の部屋があっても虐待を受け、または自分の言葉や行動が否定されるならば、それは建物としての家であっても、自分が自分で居られるホームではない。

もう一意度聞く「あなたには居場所があるか、あなたには自分が自分で居られる場所があるか?」と。収入、能力、健康、人間関係はとても大切だが、それらは形を変え、無くなっていく事も大にしてある。だが例えそれらを超えて本当に安心して自分で居られる場所、それが命の拠り所であると感じている。


私はこの2年間の間に7回引っ越しをし、3回転職をし、今は教会、病院、施設合わせると毎週10近い場所に出向く。平日はチャプレンとして毎週合計約1500キロ移動して患者さんたちに会いに行く。色々な場所に出向き、人々に会うのは確かに体力がいるし、疲労も貯まる。けれどもそれ事態は辛くはない。本当に辛くなる時は、その場所に自分を知っている人が誰も居なく、自分がこの場所で必要とされていないと感じる時だ。そればかりか聖職者顔して出かけていくが、何の役にも立たず、かえって邪魔な存在になる時もある。そんな時は居場所がないどころか、消えてしまいたくなる事もある。


だが逆に居場所を感じる事も沢山ある。500キロ移動して誰かに逢いに行って「あなたと話せて元気がでた」と言って貰えること事がある。そんな瞬間は疲れなど吹き飛ぶ。「来週もこの病院に来てくれますか?」などと言って貰えた時には大きな力が沸いてくる。


人の魂の居場所とは、自分を知っていてくれる人が居る場所、自分を必要としてくれる人が居る場所、そして自分の過去も未来も現在も、どのような罪も病も理解してくれる人が居る場所の事だと思う。すなわちそれが十字架である。ルカ福音書のイエスはエルサレム、十字架を目指し進んでいく。権力者、宗教者につるし上げられ、最愛の弟子たちから見捨てられる。あれだけ助けた群衆も誰一人イエスを守らない。けれどこそこでイエスは出会ったのだ。二人の罪人に十字架の上で出会ったのだ。一人はイエスを罵るが、イエスはその男の怒りや哀しみを責めず沈黙をする。そしてもう一人、「天国に行く時私を思い出してください」と願う罪人には「今日、あなたは私と共にパラダイスにいる」と宣言する。


十字架の上と横、そこにはこの世界で居場所がなき、消されて行こうとしていた男たちがいた。だがイエスはそこにこそ居場所をつくったのだ。十字架という激痛と孤独の中で共に死ぬ。最悪だがその先に天国がある事を伝えた。十字架とは究極の全肯定のメッセージである。あなたが誰であれ、どんな罪人であれ、どんなに弱くとも、イエスはそれを全て受け止め共に苦しむのだ。


そんな最後は誰も迎えたくはない。けれども私たちが居場所だと思っている場所や関係性、富や力はやがて消え去る。だが十字架のイエスはいなくはならない。むしろこの世界に居場所がなくなり、命の拠り所がなくなった時にこそ確かに立ち続けているのだ。この十字架の前に今日もあなたは招かれているのだ。

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