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「後先は後で考えましょう」2021年12月12日 関野和寛牧師

待降節第3主日

聖書箇所:ゼファニヤ書3章14-20節・イザヤ書12章2-6節・フィリピの信徒への手紙4章4-7節・ルカによる福音書3章7-18節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなた方にあるように。アーメン


 もうすぐクリスマスだが、キリスト教会ではイエス様とかマリア様の話の前に、洗礼者ヨハネの物語を必ず読む事になっている。この洗礼者ヨハネとは救い主イエスが来ることを荒野で人々に述べ伝えた人物である。現代と同じである。社会が混乱している中で人々は如何に生きるべきか、そして如何に苦しみから救ってくれる時代のリーダーを求めるのだ。庶民から政治家、宗教者、兵士たちありとあらゆる人々がヨハネの元にやって来ては「どう生きれば良いのか」と必死に聞いた。  

 ヨハネは人々に「悔い改めよ」つまり懺悔せよと伝えた。懺悔とは自分が犯した悪事を告白し反省するという私たちが思い描くものではなくて、生き方、価値観を180度変えるという事である。自分の生き方を180度変えるという事は人間には到底無理だ。それはイエスが語った、貧しさの中に豊かさがあり、試練の中に喜びを見つけるという事でもある。批判され、馬鹿にされて、陥れられて、裏切られる、そのような人間として最悪な状態を喜べと聖書は語る。  「貧しく慎ましく、苦しみを耐え忍んで生きる」聞こえはいいが、そうやって生きている誰かの美談を聞くのは良いが、そうやって価値観を変えていざ自分が生きるとなると話は別だ。だから私たちは宗教と距離をとる。だが聖書はそのような私たちに迫ってくる。 「悔い改めよ」と語られ、実際にどうしたら良いのか?民衆が尋ねるとヨハネは答えた「下着を二枚持っているなら、一枚も持っていない者に一枚やれ」と言うのだ。それはユニクロのシャツを一枚貧しい人に寄付しろというレベルではなく、あなたの持てるものの半分を持っていない者に施せと迫っているのだ。下着一枚と言っているが半分を見ず知らずの者に無償で、見返りを求めず与える、これが具体的な方向転換だ。おおよそできない。  

 私の友人にケンタという牧師がいる。熱い魂の持ち主なのだが、ケンタが大学生の時から教会の礼拝に通っていた。礼拝では終盤にカゴが回ってきて参加者がお賽銭のようにお金を入れる。教会はこの献金だけで成り立っている。それを知っていたケンタは毎週、献金として礼拝で千円を入れていた。大学生にとって千年は大きなお金だ。そしてその日も献金のカゴが回ってきた。ケンタが財布を開くといつもあるはずの千円札がなくて代わりに一万円札が一枚が入っていた。流石に一万円を教会に捧げるわけにはいかない。ケンタは仕方なく今日は五百円を献金しようと小銭入れを開けると、なんとそこには五十円玉が一枚しか入っていない。  自分の所に献金カゴが回ってきたのであれば素早くそれを次の人に回さなければいけない。即決断しなくれはならないのだ。一万円と五十円玉、皆だったらどちらを入れるか?究極の選択だが、私だったら迷いなく五十円玉を入れる。だが横にいたケンタの友人がその様子を見ていて、一万円か五十円玉かで迷っているケンタの肩を抱いて囁いた「アーメンだ!」と言った。悪ふざけだったのかもしれないが「一万円入れろ!」だ。  若さの勢いかケンタは一万円を入れてしまったのだ。教会に行き聖書の話を聞き、祈りを捧げ、いつも通り千円を神に捧げて家に帰るつもりだったが。だがこの日、ケンタの計画は崩れた。大学生がいきなり一万円を失うのは大ごとだ。財布の中に五十円玉しか無くなったケンタはなんとも言えない気持ちで家路に着いた。

 状況は違えど神を信じるとはこのような事ではないかと私は思う。神を信じて教会に行ったのに思ったようにならない。教会に通い時間もお金も取られ逆に虚しくなる。見たくない人間関係を見て教会が嫌になる。教会の帰り道に交通事故にあった者もいる。だが時がくると神に費やしたものは何倍にもなって返ってくると私は信じている。  このケンタが家に帰ると奇跡が起きた。なんとケンタのおばあちゃんが家に来ていて「これケンタに」と言って封筒に入っていたお小遣いをくれたのだ。しかも封筒の中には三万円が入っていた。熱くてシンプルなケンタは心の中で叫んだ「神はいる!」と。そのままの生き方をしているケンタは去年までとある教団のトップを務めていた。後先を計算しないで、全力投球ができる最高の牧師だ。  

 良くルター派、ルーテル教会は「清い行いで救われるのではなくて、信仰によってのみだ」と語るが、それは信じていれば何もしなくてもいいという事ではない。信じているからこそ、そこに全てを賭けるような行動がそこには伴う。聖書の信仰はめちゃくちゃな賭けの連続だ。アブラハムは年老いてからやっと与えられた息子イサクの命を捧げろと神に命令される。苦しみ抜いた挙句にアブラハムは本当に我が子イサクを刃物で殺そうとした時、神はそれを止めた。そして神はアブラハムの信仰を本物と認めた。めちゃくちゃなストーリーである。  また同じくルカ福音書には税金取りザアカイの物語がある。民衆から金をまきあげ続けていたザアカイという嫌われ者の税金とりがいた。だがイエスは誰も寄り付かないそのザアカイの家を突如訪ね、そしてザアカイの家の食事会に参加する。罪人の家に救い主が来る、あまりにもの出来事にザアカイは喜びが爆発し「自分の財産の半分を貧しい人に寄付する!」そして「騙しとった金は4倍にして人々に返す!」と言うのだ。財産を半分寄付し、4倍のお金を民衆に返したらザアカイは破産する。だがその勢いにイエスは断言した「今日、この家に救いが訪れた!」と。

 聖書は今日、私たちに自分たちの家族を犠牲にしろとか、全財産の半分を寄付しろと迫っているのではない。そう迫るのであればそれはカルト宗教になる。だが聖書は私たちの命を揺さぶっているのだ。神が自分の息子をあなたの為に送るほど、あなたの人生に賭けているのだ。あなたの評価や過去や今がどうであれ、神は自分の子どもを送るほどにあなたという存在に賭けている。  この命がけの情熱を注がれているからこそ、私たちはこの神とイエスに賭けていいのではないか。人間の計算や小手先の事柄を度外しして、神に人生を賭けていいのではないか。そしてこの神の子は私たちを裏切る事はないと信じている。人は裏切る。社会は裏切る。悪意なく裏切るから本当に太刀が悪い。だがイエスは裏切らない、裏切られる事を知っている神の子は私たちを裏切らない。このイエスに私たちは全てを賭けて良いのではないか。 どうか、恵みの神が信仰から来るあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを恵みにあふれさせてくださるように。  アーメン

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