top of page

「心のざわめきの解き方」関野和寛(ルーテル津田沼教会牧師/病院チャプレン)

イエスが十字架にかかる前、過越の祭りの為に

巡礼に来たギリシャ人が「イエスにお目にかかりたい!」と申し出てきた。

その時、イエスは自分の生と死を一粒の麦に例え語った。

「人の子が栄光を受ける時がきた。 よくよくあなたがたに言っておく。

一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。

しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」(ヨハネ12章)


分かりやすいようで、非常に難解な答えである。

ギリシャ人たちは高貴で威厳に満ち溢れ社会を改革する

イエスを見たかったのであろう。だがイエスはその

ような人間側の勝手な期待をひっくり返し、突き放す。


人が見たい、神の子などいないの。

人が勝手に期待する神の子など存在しない。

神の子の存在は一粒の麦のように小さいのだ。

しかもそれは刈り取られ、そこから収穫される

たったの一粒なのだ。


だがその一粒からしか始まらない。命もその豊かさも

そこからしか始まらない。ダニエル書9章で預言されている

ように神の子はこの地上から絶たれる。

イエスは十字架で絶たれ、そして罪人として墓に葬られるのだ。

栄光も名誉も力もかも奪われる。

だが墓に葬られたイエスは土の中に眠る麦の一粒だ。

時が来て再び立ち上がり何倍もの命を再び実らせていく。


クリスチャンの生き方もまさに一粒の麦である。

洗礼を受けても、クリスチャンとして生きていても

成功や幸せはいきなりやってなど来ない。

むしろ傷つき、失うことの方が多いかもしれない。


けれどもクリスチャンはこの一粒の麦を自分の命に

重ねるのだ。刈り取られ、そして地に落ちる。

芽をだし、時間をかけ茎を伸ばしていくが、

踏みつけられ、寒い冬がやってくる。

けれどもそこにはしっかりと根が張り、

必ず収穫の時がやってくるのだ。


人の目に評価される生き方、誰からも良いと

されるものにどれだけの価値、力があろうか。

そうではなく傷つき、失い、踏みつけれれる

生き方にこそ価値がある。その度に私たちの

命の根っこは十字架になるからだ。


一粒の麦は十倍、二十倍の実をもたらす。

詩篇126はこう語るのだ。

「涙と共に種を蒔く人は 喜びの歌と共に刈り入れる。

種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は

束ねた穂を背負い 喜びの歌をうたいながら帰ってくる。」


bottom of page