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「心迷い、揺れてるあなたは順調です」2021年12月5日 関野和寛牧師

待降節第2主日

聖書箇所:マラキ書3章1-4、ルカの福音書1章68-79、ルカの福音書3章1-6


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなた方にあるように。アーメン


 今日から正式にここの津田沼教会の牧師として働かせていただくのだが、「ようこそルーテル津田沼教会へ。津田沼教会の牧師の関野です」という言葉がまだまだ全然板につかない。今日、ここには何十年もこの教会を守り続けてきてくれたベテランのクリスチャンもいるし、他の教会から抜け出してここ津田沼までやって来た迷える小羊もいる。初めて教会に来たという人もいるかもしれないが、私もはじめて教会に来る人の気持ち「自分がここに居ていいのだろうか?」という気持ちが今はよく分かる。

 だが良いのだ。教会に来られる資格、それは私があなたが教会に相応しくないという事にある。教会は罪人の集まりと呼ばれている。それはイエス自身が「私は罪人を招くために来た」とはっきり言い切ったからだ。


 やってくるクリスマスは素敵で暖かな雰囲気の中で「きよしこの夜♪」を皆で歌って過ごしたい。でもその前にキリスト教会では荒野で叫ぶ預言者ヨハネの声を聴かなくてはならない。ヨハネは死を覚悟して法律家、兵士、市民、分け隔てなく、如何に彼らが罪にまみれているかを叫んだ。

 教会では罪とか罪人という言葉をよく使う。でもどこか他人事だ。私たちは何となく自分が薄汚い事を知ってはいるが、自分の過ちよりも、他の誰かの過ちを見つけ、指摘しているのではないか。自分が一番汚れている、自分は絶対赦されないのだという罪責感を抱えて生きる事は苦しいからだ。

 病院付き牧師、チャプレンとして働いていた時にある同僚がいた。彼はイラク戦争に行き、また酒場、バーで働いていた経験があり、本当の人というものの姿を知っていた。そんな彼がこんな詩を教えてくれた。


「傷だらけのままで私のもとに来なさい。嘘を抱えたままで、淫らないくつもの人間関係を抱えたままで私のもとに来なさい。あなたは眠れないほど苦しみ悩んでいる。誰かを血まみれにし、そしてあなたの口の中も血の味で一杯だ。けれどもそのままのあなたで来なさい。

敵を憎み憎まれ、あなたは家族を虐待してきた。あなたがやってきた悪事は数えきれない。

あなたの喉は飲み続けたアルコールで焼け、朝起きるたびに虚しくて、側には誰もいない。あるのは孤独と後悔と痛みだけ。そのままのあなたできなさい。口の中はドロドロで、掠れたレコードの音のような声で、ボロボロになった拳、でもそれでもどこか優しさがある目、

そのままのあなたで来なさい。傷だらけで腫れ上がったその心、恥ずかしくはなんかない、そのままのあなたで来なさい。あなたほど美しい人はいないのだから。」

~ Warsan Shire


 どうだろうかこの圧倒的な響き、耳を塞ぎたくなるような生々しさ、でも心に突き刺さって来て、けれども最後はとてつもなく大きく、温かい、何かに包まれるような感覚。現代の荒野で叫ばれたひとつの詩である。

 そして洗礼者ヨハネの言葉は2000年前、この詩と同じ以上に、いやこの詩以上の圧倒的な迫力を持って人々の存在を揺さぶったのだ。特に宗教者や法律家など、自分たちが社会を収め、自分たちが正しいと思っている者たちのその鎧を剥がしにかかった「お前たちの血筋、伝統、やってきたものなど、神の前には何の役にも立たない。由緒正しき家の出身だろうが何だろうが全く関係ない。神は石ころからだってそのような存在をつくり出せるのだから」と。


 人は肩書きで自分を飾り、建前で本音を隠し、笑顔で涙を隠す。でもそうじゃない。宗教家だろうが法律家だろうが、農家だろうが、漁師だろうが、誰でも罪人、弱いただの人間。でも皆、その自分の弱さや過ちを隠そうとする。ヨハネはその隠れみのを破壊するのだ。だからこそヨハネは荒野に人々を集めたのだ。

 救い主、イエスがやって来るという重大な事であれば、政治家の街頭演説のように街角で語ればいい。本当に世界を変えたければ、政治家がいる官邸で、宗教者がいる神殿で語ればいい。ましてやこのヨハネはユダヤ教の祭司、宗教者の息子、名門に生まれているのだから、それができるはずだ。でもヨハネはそれをしなかった。神殿でも官邸でも街角でもなくヨハネは荒野を選んだ。その理由は皆が同じになれる場所だからだ。どんなに地位があっても、どんなに名誉があっても、どんなに金があっても荒野では何も役に立たない。ヨハネはそこにやって来た宗教者や権威者たちに叫んだのだ「お前ら自分たちが救われると思っているが、お前たちこそ滅びるんだ!」「身分に関係なく、罪を悔い改めなければ、誰しもが滅びるんだ」とヨハネは叫んだのだ。人間が持っているものを最大限無力化するのが荒野だからだ。


 そして私たちは荒野の中を生きている。そしてキリスト教会とは荒野だと思う。イエスの前に何者でもない、全員がただ弱く、汚れた、罪人に戻る荒野だと思う。地位、名誉、力、富を持っていれば、ひと時は自分の人生をコントロールできているように感じる時もある。でもある日、一瞬のうちにそれらを失う。だが、何もコントロールできなくなった時こそが神の時でもある。あれやこれやできる事があって、選択肢がある時は自由と力を感じる。けれども何もできなくなった時、選択肢がなくなった時、私たちは神に頼るしかなくなる。逆に言えば自分の中に誇れるもの、しがみ付いているものがあるうちは神を信じる事などできないのかもしれない。

 はっきり言えば自分の力で自分の計画を思うように生きている方が安心だし、心地よく感じる。自分の人生のコントロールを失う事以上に苦しい事はない。この一年間、あなたは何を手に入れ、何を失っただろうか。もしかしたら大切な人、家族を失ったかもしれない。健康を奪われ、これまでできていた事ができなくなったかもしれない。仕事がなくなり経済的に何かを失ったかもしれな。どれほど苦しい事か、それはあなたにしか分からない。

 けれども人は何かを失った時、失いかけた時が一番苦しいが同時にその時は一番強い。何よりも強い神に頼るしかないからだ。私たちの日々は思ったようにはならない。けれども神は思った以上の事をすると私は信じている。


 ヨハネは荒野で叫んだ「悔い改めよ」と。それは「悪事を反省しろ」とか、「謙虚に生きろ」とかそのような事を言っているのではない。「悔い改めよ」とは方向を変えるという意味の聖書の言葉だ。つまりものの見方を変えるのだ。あなた自分ではもうできないという、何もないという、その瞬間こそ、神があなたの人生を最大限に輝かせる瞬間だということだ。

 聖書は語る「この荒野で神の為に真っ直ぐに道を整えと」と。「それは真っ直ぐに生きろ」と生き方や考え方を全て変えろと言っているのではないし、そもそも人はそんな事はできない。そうではなくて聖書はこの荒野を生きるあなたに「着飾るな、心偽るな、弱く、汚れたままのあなたを真っ直ぐに生きろ」と語っているのではないか。イエスという人はそのように弱く、汚れた者たちの人生に向かって、十字架に向かって真っ直ぐに生きた人だからだ。そしてこのイエス、神と一緒に生きられる時、あなたの真の輝きと姿が現れるのではないか。

 先の詩、「ボロボロで傷だらけで、色々なものを失ったあなたのままで来なさい」という言葉を思い出して欲しい。私は言いたい「ようこそルーテル津田沼教会へ」そして「そのままの姿で来たあなたが美しい」と。


どうか、恵みの神が信仰から来るあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを恵みにあふれさせてくださるように。  アーメン



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