聖霊降臨後第15主日
聖書箇所:エゼキエル書33章7-11節・ローマの信徒への手紙13章8-14節・マタイによる福音書18章15-20節
キリスト教会が持つ、最大の力は「罪の赦し」である。
イエス自身「私は正しい人を招く為ではなく、罪人を招く為にやって来た」と言われた。コイノニアという「信者たちの交流」を意味する聖書の言葉がある。ある人はこの言葉を「共犯者たちの集い」と訳した。
私はこの訳が一番好きだ。
「教会は罪人の集い」そうは言うものの、現実はそうなっているであろうか。ある程度、許容範囲の罪人が集まっているが、本当の罪を犯し、その重すぎる十字架で苦しんでいる人は教会に来られるようになっているだろうか。
残念ながらそうはなっていない。最近、はじめて教会に来られた人が教会の中を少し見て「自分は半ズボンで来て
しまったから、、、」と中に入るのを非常に恐れられていた。
残念ながら私たち既存の教会は「重荷を背負った人は休ませてあげよう」という聖書の言葉を掲げ、「どなたでもおいでください」と言うが実際は本当に大きな罪を犯してしまった人々が集るようにはなっていないのだ。
私にも受け止めきれないような状況の人々が沢山いるし「いつでも、誰でもおいでください」と無責任には
言えない。だが私は受け止めきれなくてもひとつ誇れる事、確かな事がある。
それはあの十字架、神の子イエスが命を捨て全ての人の、どの様な罪をも赦していると言う事だけは揺るがないのだ。
牧師をしていれば人を殺めてしまった人々の告白を聴くこともある。戦争で、犯罪で、また意図せず事故で人を殺めてしまう事がある。だが刑期を全うしてもその心から重荷は完全に消える事はない。
「こんな私でも赦されますか?」と聴かれる時、私の心は激しく揺れる。簡単に「はい赦されます」とは
言えない。そして何より相手こそそんな簡単な答えを求めてはいない。けれども救いの声が必要なのだ。
その様な時私は言うようにしている「あなたが奪ってしまった命。そのご家族や親しい人はあなたを赦すことはできないでしょう。けれども世界中があなたを赦さなかったとしてもあの十字架のイエス、あなたの為に死なれたイエスは
あなたを赦しています」と。
神の前に、そして人の前に震える想いがする。
人は本当に赦されるの。本当にどのような罪でも赦されるのか。けれども罪を犯してしまった人はそれでも赦されなければ生きてはいけない。その一言が教会にはあるのだ。
この様な神の子イエスは皆に好かれ、歓迎された訳ではなかった。罪人の中に入って行き、自らも
罪人とされ命を奪われてしまった。そしてそのイエスの十字架の前に集う事は綺麗事では済まされない。
マタイ福音書でイエスはペトロ、そして教会に罪を赦す権威を授けた。けれどもその赦しは優しいものでも、
綺麗な物語でもない。本当の赦しは痛みとリスクが伴う。
マタイ福音書18章でイエスは語った「小さな者を探しに行く、それは九十九匹の羊を置いてでも
迷い出た一匹を探しに行く事」。そう理解されないのだ。
けれども人間の理解を超えた赦しだけが迷い出た人を救うのだ。
今日の聖書のメッセージはきっと多くに人に好かれるものではない。
だが誰か一人に届けばと願っている。