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「現代のエクソシスト」2022年6月19日 関野和寛牧師

聖霊降臨後第2主日

聖書箇所:イザヤ書65章1-9節、ガラテヤの信徒への手紙3章23-29節、ルカによる福音書8章26-39節

世間にはスピリチュアル系の集会が色々な所で行われているが、驚くことに政治家、企業社長、著名人が多く集っている。社会的地位や権力、富を得た結果、逆に精神状態が不安定になり、極端に何かを信じていないと自分を保てないのではないか。オカルト的な悪霊やお化けは信じていないが、悪魔の力を私は信じている。悪魔の力は自分を無価値化させ、「自分が自分で居ることを喜ばせなく力」であると思う。


福音書の中に悪霊に取り憑かれているとされた男がいた。服を着ないで裸で叫び回り、鎖で縛り付けられていたが、それさえも引きちぎり墓場に住んでいた。異様な光景に感じるかもしれないが、数十年前まで私たちの社会でも座敷牢のような場所に精神を病んだ人々を閉じ込めていた。家族もそのような者たちを隠していた。


彼はただの異常者ではない事が分かる。驚くべき敏感さと見抜く力を持っている。社会や家庭に自分の居場所が無いことを感じ取り、墓場を自分の住まいとしていたのだ。そしてこの男はイエスの事を「いと高き神の子イエス」と言った。他の者たちは預言者、偉大な教師などと呼び、イエスの本当の姿を理解していなかった。裸で叫び暴れているこの男は確かに、社会の中に居場所はなかったが少なくともイエス、神の子の存在を捕らえていた。そのような人の住む場所が墓場しかなかったのである。彼は自分を縛り付ける鎖や足かせを引きちぎり、身体は解放された。けれども社会の人々と精神状況や行動が異質な彼の居場所は墓場だけだった。


私たちの社会もそうである。自由に生きる者は叩かれ、干され、追い出される。本当に神の事を知る者こそ生きずらく、この社会と折り合いがつけられなくなる。私たちもまた知らず知らずのうちに、墓場のような日々、精神状況に追い詰められてはいないだろうか。


そしてイエスはそのように、行き場を無く追い詰められた人々の救い主なのである。この男は自らイエスに近づいてきたが、「私にかまわないでくれ」と言っている。救われたいけれども、自分の中で苦しみを安住としてしまい、自分を無価値かする力がこの人の中に働いている。イエスはその悪霊に名前を聴いた。彼の中に住んでいたのはレギオン(大勢)という名の多くの悪霊だった。悪霊たちを豚の大群の中に移動し、崖を下り、湖の中になだれ込みそのまま溺れ死んだ。なんとも異様な光景。けれどもそれはこの男が苦しみ続けた日々、縛られ続けた日々の苦しみの大きさを表しているように思う。


そして私たちも肉体では生きていても、社会の中で見えない鎖に縛られ、ひとつそこから自由になったのもつかの間、更に追い詰められ墓場のような場所と時間に捕らわれていないだろうか。そしてそこで神を求めつつも神を遠ざけようとしてしまう。


けれどもそこにこそイエスの言葉は響く。エクソシストとは超能力的な悪魔払いの事を指すのでは無い。400年間エジプトで奴隷状態にあったイスラエルの民をモーセが脱出させた、出エジプト記はエクソドスという。エクソシストと同じ語源であり「外に出る」つまり奴隷状態から、死の支配、抑圧の外に出るという意味である。


イエスの病による病の癒やし、罪の赦し、悪霊の追放は全てエクソシストである。

そしてこのイエスの存在、言葉は私たちにとっても解放の福音なのである。あなたも今日何かに縛り付けられていないであろうか。追いやられ墓場のような日々を自分の居場所にしていないであろうか。もしそうであればイエスの言葉があなたを自由にする「あなたは縛られる存在ではない」、「あなたの居場所はそんな場所では無い」と。

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