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「練達は希望を生む」2020年6月14日

聖霊降臨後第2主日

聖書箇所:出エジプト記19章2-8a節、ローマの信徒への手紙5章1-8節、マタイによる福音書9章35節-10章8節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなた方にあるように。アーメン

 今日の第2の日課は、パウロがローマの信徒たちに向けた手紙です。先週はコリントの信徒たちに向けた手紙を皆さんでお読みしました。パウロはコリントの教会を再び訪ねる予定でしたが、それを延期したことで「約束を破ったパウロ」という不満を招いてしまいます。コリントの信徒たちの間でさまざまな誤解も入り乱れます。パウロはコリントの信徒たちから冷たい態度をとられていたことを伺わせます。争い、ねたみ、怒り、陰口、騒動などがあり、彼を嘆き悲しませるような状況であったようです(コリントの信徒への手紙一12章20節~21節参照)。またそれどころか生きる望みも失いかけるほどに、それほどまでに彼は追い詰められていたのでした(同1章8節参照)。先週も述べましたが、彼は教会の兄弟姉妹との悩みや悲しみから、また宣教の旅での苦労も含めた諸々の思いを「苦難」という言葉で表現しました。それでもその後にコリントを訪ねて3か月滞在して、そこで書き上げたのが「ローマの信徒への手紙」と言われています。パウロの手紙の中ではこれが最も新しい手紙であり、すなわち宣教人生の中で最後に書かれた手紙(推定:西暦55年~56年頃)でした。

 苦難の中でも彼は宣教の旅を続けました。そのような力はどこから与えられたのでしょうか?今までの、大変な思いを振り返り、彼なりに確かに見出した箇所のひとつが今朝お読みしたローマの信徒への手紙の箇所です。彼はこう言うのです。

 「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」(5章3節)

 普通では考えられません。生きる希望や力さえ失った経験を持つ彼は、それをもたらした「苦難」を「誇りとしている」と言うのです。そして、その忌まわしき苦難から希望を生む、とまで言うのです。生きる力を失せるほどの苦難を経験してくることで人は疲れ果て、パウロのように誰でも心が折れます。パウロも主と出会いながらもそうなったのです。そうなりながらも、彼はその都度一度立ち止まり、自分自身を振り返ったのでしょうか。

 苦難に関して言えば、私たちも決して無関係ではありません。いや、むしろ大変な世の中にいて、生きる上で皆さんも常に隣り合わせの方もおられると思います。苦しみからどのように向き合えばいいのか。聖書に記されている以外の視点からはどうでしょうか?

 以前に仏教の天台宗の酒井雄哉(さかい ゆうさい)氏の言葉をご紹介しました。私は、酒井氏の著作はクリスチャンになる前はよく読んでいました。少しご紹介します。彼は2013年に87歳で亡くなられた大阿闍梨とよばれる僧侶でした。戦後の若いころは、図書館職員でしたが途中で職場を放棄して辞めてしまいます。そのあとはラーメン屋を開業しますが火事で廃業してしまいます。株売買の代理店を始めますが、大暴落で1億円の負債を抱え借金取りに追われ、そば屋の店員、菓子店のセールスマンなど職を転々としました。33歳のとき結婚しますが、結婚早々彼の妻が大阪の実家に帰ってしまいます。彼が連れ戻そうと迎えに行った際、争ったことがきっかけで酒井氏の妻は自殺をしてしまいます。彼は大変なショックを受けて以後抜け殻のような生活を送ったそうです。その後39歳のとき、出家して比叡山延暦寺の仏門にはいります。酒井氏は、7年で4万キロを歩くという千日回峰行という大変厳しい修行を2回もおこないました。これは1000年を越える比叡山の歴史の中でも3人しか達成していないと言われているそうです。彼は、その修行のなかでの回想を通して、著作の中で苦難について次のように触れています。

   …だれだってみんなそうなんだよ。いま自分がここにいるということは、それなりの苦労があったからでしょう。みんな、いろん

  な経験や苦難を経て、いまの場所に立っている。いろいろなことを乗り越えながら生きているんだよ。

   もしかしたら、いまつらくて苦しくてたまらないかも知れないけど、でも、これまでだって、つらく苦しいことがあるはずでしょ

  う。そういう延長線上にいまの自分がいる。もう辛抱たまらんと思ったら、いままでの人生を自分なりに振り返るといいかもしれな

  い。良かったこととか、いろいろ考えるなかで、ちょっとした弾みで、気分が晴れて、また次の頑張りにつながっていくものだよ。

                                  (酒井雄哉『続・一日一生』 朝日新書 2014年 51頁。)

 酒井氏の言うような苦難はパウロも私たちも経験していることだと思います。他者からの心外な言葉や無力とも思える出来事などに遭遇したときの気持ちは悲しみや孤独感なども含めた苦しみそのものです。気分を晴らして、明日の頑張りにつなげるには、自分の努力を必要とします。正直難しい面が多いかも知れませんが、少しずつ折り合いをつけていく中で耐えてこられた方もおられるでしょうか。私たちにとっての希望は酒井氏の言う希望とほぼ同じ意味でしょう。自分や自分以外とのすべてのかかわりにおいて、感情的にもなりながらも「希望がある、いや希望がない」と表現していると思います。経済的なことや人生設計を元に予測する意味で用いる「希望」も含むと思います。

 しかし、パウロの言う「希望」とは私たちの普段日常で用いる「希望」とは異なります。パウロの言う「希望」とは、神様の愛はいつも私たちに与えられて、そして救いの約束が絶対であることに信頼していく喜びなのでした。それは、この人生の先に、どれほどのつまずきがあろうとも、また迫害のような苦難があろうとも「いまもう一度生きてみようではないか」、という力も合わせて、キリストから与えられる喜びだったのです。

 酒井氏の言うような、いま生きている延長線上において、パウロはどうであったでしょうか。それはキリストとの出会いがあったのです。だから彼は「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」という言葉のなかで「私たちは知っているのです」と断言しているのです。さらに「苦難も希望も誇りとしている」と断言しています。そこまで言う理由は何でしょうか。パウロは5章の冒頭で「わたしたちは信仰によって義とされたのだから」と言うのです。「主と出会っただけではない。だからすでに知っているのだ」と言うのです。

 キリストを信じる信仰で義とされる。すなわち全てを主にお任せしていくだけで絶対的な救いがすでに与えられていくことを知っていたのです。聖霊によって主の愛が無限に与えられ続けていくことを知っていたのです。その愛が続く限り失望に終わることがない。これが真の希望の根拠であることを知っていたのです。生きる上で苦難がある。しかし、それでもペンテコステを通して聖霊が私たち一人ひとりに豊かに与えられています。だからこそ、もう一度主と歩んでみようと力が与えられる中で忍耐も形成されていくのではないでしょうか。

 練達とは試されて本物とされていく証のことです。試練の中でむなしさや失望もあったけれども、しかし本当に主が共におられた。その主に依り頼んでいたことを通して、確かに本当に聖霊の働きが存在していた。聖霊によって与えられた信仰があった。信仰とは主の約束が与えられてそれを受け入れることです。それを通して私たちの信仰が本物となるようにしてくださった。そして最後は失望で終わることなく「然り、アーメン」と言える道を備えてくださった。そして、今も明日もなお主の愛が与えられている。それらの喜びが希望となっていく。そういうパウロの確信が今日の箇所なのです。

 今日の福音は苦しみ、打ちひしがれている民衆を主は深く憐れまれます。人間の苦難を、私たちの苦難を憐れんでくださる主の深い愛が示されています。そして改めて弟子たちを隣人のために派遣されるのです。私たちも今週も派遣されていきますが、先日の福音で主が「…わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイによる福音書28章20b節)と約束してくださったことを振り返りましょう。

 いま一度、すべてを主に信頼して委ねていくことから整えて行きましょう。

 これからも聖霊の働きを通して愛されつつ、導かれていることを覚えて行きましょう。

 喜びと希望を抱いて行きましょう。

 そして行きましょう、主の平安のうちに。

望みの神が、信仰からくる あらゆる喜びと平安とを、あなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

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