top of page

「自分で自分を諦めない」2022年3月20日 関野和寛牧師

四旬節第3主日

聖書箇所:イザヤ書55章1-9、コリントの信徒への手紙一10章1-13、ルカの福音書13章1-9


今日の福音書の物語は理不尽な二つの出来事から始まる。

一つ目はガリラヤ地方で生活していたユダヤ人たちが、総督ピラトによって礼拝中に襲撃され殺されてしまったのだ。今日も紛争やテロが絶えないが、そのような時に病院や学校、宗教施設、人が癒やされ、学び、祈る場所と時間を 破壊する、最も残忍な事が今日も起きている。 二つ目はシロアム地方にあった、外敵の侵入から住民を守る城壁の塔が崩れ、18人が下敷きになり命を落としたのだ。地震か建設上の問題だったのか、いずれにせよ人々の命を守るはずの 城壁が住民の命を奪う。


絶対に起こってはならない事、起きて欲しくない事、理不尽が私たちを襲う。そこで私たちは理不尽の意味を問う、何故このような悲劇を私は経験しなくてはならないのか?あの人がこんなに苦しんでいる理由は何なのであろうか? 聖書の時代の人々はその理由をその人の罪や、 家族の過ちに探そうとした。私たちは理由が欲しい。大切な自分が苦しみ、また大切な人が奪われてしまった事実は変えられないとしても、その理由を理解したい、それができない時、その怒りの矛先を探す。 そのような質問をして来た人々に向かってイエスは「彼らが罪深かったから理不尽に死んだのでは決してない。悔い改めなければ、誰もが滅びるのだ」と答えた。そして果実が実らない無花果の例え話をし始める。この実らない無花果は、私たちが日常で感じる生きる虚しさのようなものを物語る。 果物園で様々な木々がそれぞれに豊かな実を結ぶ中、無花果、自分だけが結果を残すことができない。周りに雑草が茂っていて養分が自分の方に回ってこない。また養分が回って来たとしても、横に背の高いリンゴの木が生えている。豊に茂ったリンゴの葉が自分の上に覆い被さり、日差しが届かない。自ら手を伸ばして払い除ける事も、叫ぶこともできない。来る日も来る日も自分には日が当たらず、自分は葉を茂らせることはおろか、実を実らせる事もできない。自分がここに居る意味がない。結果が何も残せない。周りは順調に成長し、徐々に実を膨らませてくる。

収穫の時、年度末、節目がやって来る。果物園の主人がやって来る。 「素晴らしいリンゴの実だ!」「なんて美しい葡萄だ!」「このグレープフルーツ色はくすんでいるけれども味は最高だ」。 その後でなんとめ冷たい視線がこちらに向いてくる「これはなんだ?」「これが無花果?何もなっていないじゃないか?」「邪魔だ、、、抜いてしまえ」。自分の存在が全否定される。 私たちは一人ひとり生活している状況は違う。 けれども誰しもが自分を肯定できない瞬間がある。居場所のなさを人生の中で経験する。周りと比較し自分の無力感に突き落とされる経験をする。たった独り、自分だけが理不尽な苦しみの中にいる、誰も自分を理解してくれない、そのような闇の中にいる時、私たちは絶望する。 そのような時にその絶望の中で声が響く「ご主人、あと1年待ってください。もう一年だけ待ってください、、、。私が木の周りを掘って、肥料をやってみます。来年実がなるかもしれません!」。 このような聖書の物語は美談にすり替えられてしまう。諦めずに試験を受け続け国家資格を得た、何度も挫折したけれどもオリンピックに出た。このようなサクセスストーリーが確かにある。だがそのような奇跡はほんのひと握りだ。 そんな奇跡は自分には起きないのだから、 だったらこの命をおわらせたい、自分は実らない無花果、一年待たされるだけ惨め、今すぐ切り倒して欲しい、周りに迷惑がかかる。そう自分の存在理由が分からなくなる時が私たちにはある。 この物語の続きを想像してみる。この三年間実を結ぶことのなかった無花果の木が次の年に果実を結ぶ確証は一切ない。むしろ実らない確率の方が高いのではでないか。 だがこの残酷な現実の中に私はキリストの姿を見る。十字架の木の上で殺されたイエスの姿を見る。この無花果の木の物語、一年後にそこに何が起こるのだろうか。 タイムリミット、期限がやってくる。無花果には何の実も実っていない。いよいよ約束通り何も実らなかった私は切り倒される。四年間、何一つ結果を残せなかったのだ。四年どこではない、自分の人生そのものかもしれない。自分が居る意味などないのだ。 そのような時、横に細長いもう一本の無花果の木が見える。自分と同じように細い、いや自分よりも細いかもしれない。その無花果の木が私に語りかける「私もだよ」「私も何も実らなかったよ」。 十字架のイエスという方は私にとってそのような存在だ。自分が究極的に絶望している時に一緒に絶望してくれる存在が私にとってのイエスなのだ。 人生最後の日々、理不尽な出来事に突き落とされる時、私がどのような状況になっても、例え誰に見放されても、「私も一緒だよ」「一緒に死のう」と言ってくれるのがイエスなのだ。 明日炉に投げ込まれる、切り倒されるかもしれない、でも一緒に死んでくれる神がいる、その事があれば私の中の恐れは少し小さくなる。一緒に死んでくれるほどの神の愛、それが私の命の源になれば、例え人の目には果実に見えなけくとも、私には希望が実る。 そういえばイチジクは花がない果実と書く。 花が咲かないのではなくて無花果の花は実の中に咲いているのだ。あの色とギュッと詰まった繊維は花なのだ。誰にも見えない。でも確かに咲いてるのだ。

bottom of page