■クリスマスシーズンに増える自死者の数
クリスマスシーズンが到来し、混乱を極める世界ではあるが
表面的には少し賑やかなに、華やかさを増す。
だが同時に、クリスマスから年末は自死者が増える時期でもある。
今年家族を失った人にとっては周りの煌びやかさ、
目の前を通り過ぎる家族たちの姿が逆に自分の孤独を
浮き彫りにする。
病室でクリスマス、お正月を迎える人々がお大勢いる。
昔は親戚が実家に来て祝ったお正月は二度と戻らず、孤独な現実に押しつぶされ
そうな人々がいる。若い世代でも恋人や仲間が居なく、ひとりでクリスマスを
孤独に過ごす事を「クリぼっち」などと揶揄する。けれども私は思う、
孤独感がなければクリスマスは祝えない。いやむしろ孤独こそが
クリスマスの条件なのではないかと。
■聖書には幸せなクリスマスはない
神の子イエスの到来を告げる最も古いマルコ福音書の冒頭は
こう始まる。
神の子イエス・キリストの福音の初め。 預言者イザヤの書にこう書いてある。
「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、 あなたの道を準備させよう。
荒れ野で叫ぶ者の声がする。 『主の道を整え、 その道筋をまっすぐにせよ。』
そのとおり、 洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために
悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。」
マルコによる福音書 1:1-4
マルコ福音書ではイエスの両親、マリア、ヨセフが登場する
クリスマス物語はない。救い主誕生を告げる天使、
ダビデの星が輝きそれを頼りに東の国からイエスに
会いにくる博士たち、そして羊飼いたちも登場しない。
良く知られたどこかロマンチックなクリスマス物語は
マルコ福音書には一切記されていない。
ただそこにあるのは、荒野でイエスの到来の為に
「罪を悔い改め、洗礼を受けよ」と叫んでいる
バプテスマのヨハネの姿である。
荒野とは人間の力が及ばない場所、
死と隣り合わせの場所を指す。
だが同時に聖書の奇跡の多くは
荒野で始まっていく。モーセの出エジプト、
400年の奴隷状態からのイスラエル民族大脱出
も荒野の中で海を割り進んで行った。
イエスの布教活動の始まりも
荒野での40日間の断食から始まる。
荒野は人間を極限にまで苦しめる場所で
ありつつ、けれども人間がはじめて神にのみ
助けを求める場所でもある。
■荒んだ心は聖なる場所
混沌を極めた1年も終わりに向かっていく。
たんとか平穏に日常を過ごそうとするものの
心の中は不安や苦しみで溢れ、年末のこの
お祭りモードがそれを加速させる。
けれどもその不安や苦しみが支配する
心こそがクリスマスの場になっていく。
もし心がこの社会の富や地位で満たされていたら、
貧しき者、罪人の為に来られたイエスを
必要とはしない。イエスを信じようとしても
どうしても今ある人間的な力や成功の上に
飾り物のように置く形の信仰にしかならない。
だからこそ荒野から始まったクリスマスの
物語を思い出すのだ。荒野の預言者、洗礼者ヨハネは
人々に自分の罪と向き合う事をさせた。
汚れた心、過ちを犯しながら生きてきた、
でもそれでも神を求める、そこにこそイエスは
来るからである。
1年の最後に思う。今年も社会の荒波の中、
不安に飲み込まれながら沢山失敗し、
人を傷つけ、薄汚く生きてきた。
でもそんな自分の見たくない部分を
見つめてみる。そんな所にこそ救い主イエスが
来てくれる事を信じて.