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「荒野で叫ぶ者の声」2020年12月6日 田中博二牧師

待降節第2主日

聖書箇所:イザヤ書40章1-11、ペトロの手紙二3章8-15a、マルコの福音書1章1-8


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなた方にあるように。アーメン


私たちはアドベント第2主日の礼拝を守っています。今日の福音書の日課はマルコ福音書1:1節から始まっています。1節に、神の子イエス・キリストの福音の初めとあります。福音とは喜ばしい知らせ、イエス・キリストによっ

てもたらされた喜びの調べ、麗しい音色ということです。

 

福音の初めに登場してきますのが、洗礼者ヨハネであった。彼は荒れ野で叫ぶ者の声として姿をあらわすのです。洗礼者ヨハネの際立っていたところが彼の姿にあったことは間違いありません。彼はらくだの毛衣を着て、腰には革の

帯を締め、いなごと野蜜とを食べていたというのです。しかし、ここで最も重要なことは、洗礼者ヨハネがその姿を現した場所、すなわち荒れ野にてその働きを始めたというところです。

 

荒れ野とは一体どこか?ここで荒れ野とはイスラエルの民がかって奴隷の地から逃れてきた道であり、40年に渡って旅をした出エジプトの出来事を思い起こさせるところでありました。荒れ野とは、日常生活から遠く離れたところ

、普段は見向きもされない、忘れ去られようとする場所であったのです。

 

しかし、聖書の民にとって荒れ野とは、神のことばによって養われ、導かれてきた信仰の旅するところでもありました。自らの過ちを知らされ、罪を告白し、ゆるしを与えられ、新たに歩み出す導きの場所でもありました。なにより

も、荒れ野にて、神の言葉が語られてきました。

 

この荒れ野にて洗礼者ヨハネは悔い改めの言葉を叫んだのです。5節では、その出来事がこう記されています。

「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白しヨルダン川で彼から洗礼を受けた」イスラエルの民、その住民は皆、洗礼者ヨハネのもとにやって来た。そして、彼の叫ぶ声を聞いて、自らの罪を告白し、悔い改めの洗礼を受けたというのです。皆、全ての人々がヨハネのもとにやってきた。どうしてなのか?なぜ、人々はこぞってヨハネのもとに集まってきたのか?

ひとつは、彼が語ることばがかって、イスラエルの民が聞いた預言者たちの声を代弁するものであったからでありましょう。偉大な最初の預言者モーセ、イスラエルの建国の王ダビデ、そしてエリヤ、エリシャの預言者たちの姿をほうふつとさせるものであったのです。洗礼者ヨハネ自身、最後の預言者と呼ばれることもありました。荒れ野で神のことばを宣べ伝える旧約聖書の伝統を受け継ぐものであったのです。

 

そしてもうひとつ、イスラエルの人々の今の姿、彼らの当時の状況というものがヨハネのもとに足を運ばせたのです。それは、人々を取り巻く社会の不安であり、イスラエルの民が直面する苦しみと困難によるものでした。

人は不安のなかに置かれたとき、一縷の助けを求めて集まってくるのです。荒れ野で語る洗礼者ヨハネのもとに、人々は群れをなして集まっているのです。

目標が定まらない。行く先がはっきりしない。人々が進むべき道を失っている。そういう不安のなかにあって洗礼者ヨハネのもとへ、荒れ野で叫ぶ声を求めてやってくるのです。

 

このとき、ヨハネが彼のもとに集まってきたおおぜいの人々に向かって語ったのは、悔い改めであり、罪のゆるしを得させる洗礼でありました。それは、先週もありましたように、自らの生き方をかえりみ、方向転換をなしていくと

いうことです。それはなにか具体的な答えや方法論というのではありません。むしろ、根本的な生き方、考え方の方向転換ということなのです。

 

それでは、洗礼者ヨハネの優れているところはどこにあるのでしょうか。

福音の初めとして、まず第一に登場しているヨハネが選ばれているところはどこにあるのでしょうか。それは彼が、自分に与えられた使命に忠実であり、自らの役目を果たすものであったということです。洗礼者ヨハネはこう言います。


「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしはかがんでその方のはきもののひもを解く値打ちもない。」

 

ヨハネのあとに優れた方がおいでになる。自分の使命はそのお方を指し示すことにすぎない、というのです。謙遜な者のすがた、自分に与えられた使命に生きる者のすがたがそこにあります。

人はなかなか、自分のすがたを見つめることが難しいものです。ヨハネがここで語るように、わたしのあとから優れた方がおいでなると自らを省みることはできないものです。どうしても、自己の囚われから自由になるのは難しいも

のです。周りのひと、身近な人の目をもって、初めて自己の姿に気づかされることがあるのです。それでもなお、わたしたちは自分の姿に目を向けることがなく、本当の自分を見ようとはしないものです。

 

洗礼者ヨハネは、自分のあとに来られるお方、救い主なるお方の到来にこころを傾けるよう勧めます。洗礼者ヨハネ本来の使命は、後から来られるお方、救い主イエス・キリストを指し示すことにありました。「わたしはこの方のは

きもののひもを解く値打ちもない」と謙遜に語るのです。

 

それでは、洗礼者ヨハネが指し示すお方とはどうようなお方であったのでしょうか?ヨハネが指し示すお方こそ、旧約聖書に預言され、そしてヨハネの時代に、更に今日、私たちのところへおいで下さる救い主イエス・キリストに他

なりません。イザヤ書42章主のしもべの歌にこう示されているのです。

 

「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。

 彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導きだす。

 彼は叫ばず、呼ばわらず、声をちまたに響かせない。  傷ついた葦を折ることなく

 暗くなっていく灯火を消すことなく

 裁きを導きだして確かなものとする。      」

「傷ついた葦を折ることなく、暗くなっていく灯火を消すことなく」と歌われる救い主です。


クリスマスの日、私たちのところにおいでなる御子イエスは、まさしくそのようなお方として私たちと共にいて下さいます。あと二週間、御子のお誕生へこころを向けて、今週も一日一日、歩んで行きましょう。


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、

あなたがたのこころと思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

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