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「行き先だけ決まっていれば、まぁ後はなんとか」2021年12月26日 関野和寛牧師

降誕節第1主日

聖書箇所:サムエル記上2章18-20,26、コロサイの信徒への手紙3章12-17、ルカの福音書2章41-52


クリスマスを迎え最初の日曜日、今日読むのは聖書で唯一記されている12歳の少年イエスの物語である。結婚前から神の子イエスを預かり出産したマリアそしてそれを支え続けた夫ヨセフ。人が経験しない壮絶な出来事を通して神を信じる信仰心は更に強まったのか、彼らは毎年ユダヤの重要な祭り、過越祭の度にエルサレム巡礼に出かけていた。


ナザレという村から都エルサレムまで神殿に巡礼に行く。12歳になったとはいえまだ子どもであったイエスには過酷でただつまらないだけの旅だったように思える。だがいざ巡礼を終えナザレにマリアとヨセフは家路に着いた。親子3人旅ではなく親戚や知人たち大所帯の旅であった。30人以上の旅の御一行だったのだろうか、ヨセフとマリアはイエスが親戚や友達と一緒に旅の集団に居ると思っていた。だがイエスはこの旅の集団の中には居なかった。その事に気がついたヨセフとマリアは顔面蒼白だったことであろう。一人の親として、また神の子を預かった人間として。


どこを探しても見当たらない。山賊や獣に襲われる事だってある。結局二人は遥か遠くエルサレムまで戻る。子どもが居そうな場所を探し回るが何処にもイエスはいない。まさかいるわけはないとは思うが神殿を覗くとなんとそこにイエスはいた。そこで聖職者たちとイエスは議論をしている。安堵と怒りが混じり合いヨセフもマリアもイエスを問いただす「何故こんな所にいるのだ!どれだけ心配した思っているのだ!」。だが少年イエスはあっけらかんと答える「どうしてそんなに心配するの?私は父の家に行く」と言っていたではないですか?


言葉の真意はともかく安堵した両親はイエスを連れて故郷ナザレ村に再び帰る。不思議な話ではあるが、この物語の何処に救いがあるのか?全国の牧師さんは頭を抱えているはずだ。だが私はこの少年イエスの行方不明事件の物語を通して最高の説教をした神父を知っている。正確には彼はもうすぐ神父になる見習いだった。10年近い修行期間を経て彼は次の週に正式に神父なる予定だった。その日曜日、もうすぐ神父になる彼を祝うために教会には100人を超える信者が集まっていた。厳しい修行を終えた彼がどのような説教をするのか。選ばれていた聖書の箇所はこの少年イエスの物語である。


だが目の前に居る人々の多さに新米神父は緊張で頭が真っ白になってしまったのだ。「私は父の家に行く、、、」少年イエスのセリフを神父は説教段から語りかけるが、次の言葉が出てこない。もう一度落ち着いて「私は父の家に行く、、、」語り出すがグワングワン足がすくんでどうしても次の言葉が出てこない。集まった人々も異変に気がつく。神父の身体からは脂汗がどっと噴き出す。もう一度声を振り絞る「私は父の家に行く、、、」でも次の言葉がどうしても出てこないのだ。


神父は赤面して諦めて講壇を降りた。そしてそのミサ、礼拝の司会をしていた上司の神父の前を通った。新米神父は自分の身がこれからどうなるか分かっていた。10年近く修行したのにも関わらず、大勢の前で話すらできない。目の前の100人は自分に失望した。あと1年、もしくは2年更に修行を命じられるだろう。正式な神父になれる日が遠のいてしまった。そんな面持ちで司会の上司の前を彼は絶望しながら通った。すると上司が彼に囁いた「君のお父さんによろしくね!」「いい説教だった!私たちは父の家に行くんだ。それが分かっていればいい!」。彼は救われた。


そう。イエスにとって神殿は父の家だったのだ。いつでも帰れて自分自身で居られる父の家だったのだ。そしてイエスは人々に「私たちの神を父親、親父だと呼べ」と語りかけた。そう神の国は清く正しく生涯を送った人が入れる真っ白な光の国ではなく、親父の家なのだ。教会もそうだ。清く正しいクリスチャンだけが静かに集まり祈りを捧げる建物ではない。教会は私たちの親父の家なのだ。


イエスが神殿を父の家とし、天の神をオヤジとした。だが私たちはそうできていない。「天のお父様、、、」などと神を誰でもない何処に居るか分からない存在にしたてあげ、教会もまた敷居の高い異世界にしてしまっている。だがここわ親父の家なのだ。あなたは実家に帰ったらどうするか。部屋着に着替えて気を使わず日頃の愚痴をこぼし、冷蔵庫を開け、そしてこたつに足を突っ込み、本当の自分に戻れるのが実家ではないか。会社や学校、世のコミュニティーの前で作り上げたあなたではない本当のあなたの素顔に戻れるのが実家ではないか。


そのような家庭、実家がない者もいる。だったらこの教会、少なくともこの一時間の礼拝、この場はあなたの魂の家だ。泥だらけで失敗と過ちにまみれ、でもそれでも親父があなたが帰ってきた事、そしてあなたがあたなであるという事を親父は誇りに思っているのだ。一年の最後の日曜日、ようこそ親父の家、ルーテル津田沼教会へ。


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