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「転がる石のように生きてゆけ」関野和寛(ルーテル津田沼教会牧師/病院チャプレン)

キリストの復活をお祝いするイースターはキリストの復活、

永遠の命に思いを馳せる時である。けれども、それらは実際の

私たちの生活からは程遠い事柄だ。およそイースターは年度末または年初に

祝われ、春の訪れとともになんとなく温かくそして楽しい節目の礼拝となっている。


本当のイースターの意味とは一体どこにあるのだろうか。

聖書を読んでみると、イエスの復活について記されていない

事柄が多くある。それは復活したキリストの身に最初に何が起きたか?

またキリストが最初にやった事は何かと言うことである。


十字架の上で処刑されたキリストは犯罪者として洞穴の中に葬られた。

十字架系でボロボロにされた遺体は裸のまま亜麻布に包まれていたのである。

それはミイラのようにぐるぐる巻きにされた状態だったと想像することができる。

十字架刑でたくさんの傷を負っていたキリストの体からは、

まだまだ血液が流れそれらが亜麻布に染み付いていたはずだ。


そして復活したイエスキリストが最初に体験した事は、体をぐるぐる

巻きにしていたその亜麻布から解放されたと言うことである。

自分で布を剥がしたのか、天使が剥がしたのか。

いずれにせよ、イエスは遺体状態から解放されたのだ。


国を超えて多くの人々の臨死体験について聞かせてもらってきた。

驚くべきことに、国や人種が違う人々が経験する臨死体験には、

共通点とまた異なる点、両方があることである。

多くの臨死体験に共通する事柄は、天国を彼らが見て、

そこで家族が待っていて彼らを呼んだり、

もしくは「まだ来てはいけないよ」

と送り返すそのような経験である。


異なる点はその天国に至るまでの道のりである。

日本人は臨死体験の中で三途の川を見る人々が多い。

キリスト教圏での臨死体験に関して、三途の川が文化として存在していない

彼らは当然臨死体験の中で三途の川を見る事は無い。

その変わりに彼らの多くは臨死体験の中でイエスキリストを見る

経験をしている人が多い。


つまりこの世界から天国へと移ろいの中で経験する

臨死体験は文化や宗教によってその見え方が違ってくるのである。

私が聞かせていただいた臨死体験の中で、非常に興味深い話があった。

それはこの地上の命から天国へと移ろうとするその時に、

これまで生きていた肉体をまるで洋服を脱ぐかのように脱ぎ捨てる、

そのような経験をした人のエピソードである。


これまで何十年も共に生きてきた肉体をまるで洋服のように

脱ぎ捨てるのだ。それはまるで蝶がさなぎから孵化するかのように

古い自分を脱ぎ捨てて、次の命へと移り変わっていくのである。


イースター、復活したイエスも自分の肉体を殺した十字架

そして自分の身体を遺体とならしめた亜麻布を脱ぎ捨てたのである。

人が神を殺しても、そして例え甘布に包み葬り去ったとしても、

神の命を消す事は人にはできないのである。


福音書を読むと、イエスの遺体をぐるぐる巻きにしていた亜麻布が

脱ぎ捨てられたパジャマのように傍に置かれている表現がされている。

まるでそれはこの世界の絶望、悪夢が、少し長い三日間の眠りであった

かのようでさえある。私たちももし神以外の力に支配されているのであれば、

私たちもまた生きながらにして甘布に巻かれ、そして洞穴に閉じ込められて

いるのと同じではないか。


このイースター、私は自らを解放したいし、周りの人々を解放したい。

もしあなたが神以外の力に支配されているのであれば、それを脱ぎ捨て、

新しい、自分、本当の自分に生まれ変わって欲しいのだ。

十字架で殺され、けれども墓石を転がし、そして亜麻布から

解放されたイエスと一緒ならば、それができるはずだ。

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