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「遅刻癖がある人許せません」2023年9月24日 関野和寛牧師

聖霊降臨後第17主日

聖書箇所:ヨナ書3章10節-4章11節・フィリピの信徒への手紙1章21-30節・マタイによる福音書20章1-16節


 マタイ福音書20章でイエスは天国について、ぶどう園で働く労働者を雇う主人のようだと語る。主人は日雇い労働者を雇いに朝早く市場に出かけて行く。そこには労働者たちが、働き口を求めて立っている。


 当時の時代、労働者を見定める為には外見の見た目であった。身体つきが大きく、筋肉があり、力仕事に向いているように見える者から雇われていく。主人は数人の男と一日分の賃金でぶどう園で働いてもらう契約をする。

本来であれば、ここで終わりだ。その日の労働量に合わせ、その仕事に必要な人数を雇うのだ。


 だが天国の主人、神は違う。午前9時、そして正午12時、更には午後3時にも市場に出かけ、更に追加の労働者たちを雇うのだ。極めて非効率的である。最初から必要な人数を雇えばいいはず。なのに主人は何度も市場に出かけて行き、その都度労働者たちに声をかけ、作業内容を一から説明し彼らをぶどう園に連れて行くのだ。


 コストパフォーマンス、タイムパフォーマンスを価値基準においている現代においてこの主人、神の動き方は理解できるものではない。そして神の求人技は愚かさを極めていく。なんと夕方の5時、もう日没、終業時間直前なのにまたしても市場に出かけて行き、まだそこで仕事を求めて立っていた者たちを雇うのだ。

そこまで労働力が必要であれば、早朝から10人でも20人でも雇えば良いのだ。もし、それでもまだ作業が終わらなければ、また翌朝一番で市場に出かけ、使えそうな労働者たちを倍人数雇えば良いだけの話なのに。


 そしてこの主人の愚かさは日没、給料支払い時にそれを極める。終業間近5時に雇い、1時間ほども働いていないであろう者たちを呼び給料を払う。ほんの僅かしか働いていない彼らは「1時間ほどの時給でも貰えれば、、、」と

思ったのではないか。だが彼らに手渡されたのは1デナリ、つまり1時間ほどしか働いていないのに、1日分の日当を

渡されたのだ。


 更には午後3時から働いた者も、そして12時から働いた者も1日分の日当を受け取っていく。その様子を見ていたのは早朝から働いていた者たちであった。「彼らが1デナリ貰えるのであれば、その倍の時間働いた自分達は2デナリ貰えるはず!」と期待した。だが丸一日働いた彼らが受け取ったのは1デナリだけであったのだ。


 彼らは怒り主人に不満をぶつける「なんで朝から晩まで働いた私たちと、たったの1時間しか働いていないあいつらと同じ給料なんだ!不公平だ!」と。当然の事だ。

資本主義社会の中でこのような不平等があってならないであろう。苦労した者が報われない。彼らはあまりにもの

馬鹿馬鹿しさに、次の日からこのぶどう園で働くために、夕方から市場に行くかもしれないのだ。


 だがこれは神の国の例え話、そして福音、救いの物語なのだ。

まず第一にこの主人が「1デナリを支払う」と約束したのは朝一番で雇った者たちだけなのだ。それ以降の時間に雇った人々に、労働条件を伝えていない。彼らはきっと半日分、もしくは時給換算で給与を予想し「それでも雇ってもらえるだけ有難い」と主人について行ったのであろう。つまり、しっかりと約束を提示され、その約束通りの対価を受け取ったのは彼らなのである。


 逆に最後まで職にありつけなかった者たちはどうだっただろうか。

彼らは確かに汗はほとんど流してはいない。彼らは一日中市場に立っていたが、誰も仕事をくれなかったのである。「1時間だけ働いて日当をもらってラッキー!と短絡的に喜んでいたのではない。彼らは一日中、誰からも必要とされず、仕事を与えられなったのだ。身体的に弱さがあり役に立たなそうだったのか、もしくは年老いていたのか、

その両方か。


 いずれにせよ、彼らはもう既に社会の中で必要とされておらず、彼らに価値を見出してくれる者はいなかったのだ。

資本主義の時給計算で見ればラッキーな人々かもしれないが、日没まで絶望を味わっていたのだ。役割がない、

誰にも必要とされないという状況は人間の尊厳を奪う。

だが主人、神の目に、彼らは価値ある者だった。その人の生産性がどうだ、何時間働けるそのような計算ではない。

「この社会で居場所がない者、その者も、いやその者こそ私のぶどう園に来てくれ、そして最初に報酬を渡したい!」神の国がここにあるのだ。


 けれども朝から働いていた者たちは怒った「不公平だ!」と。

まるで全財産を使い果たして堕落して帰って来た放蕩息子の兄と同じである。どうしようもない弟を父は無条件で迎えいれ祝宴を開いた。だが地道に働いていた兄は大きな不満を感じ怒った。

人間的な目で見れば最もな怒りである。けれども父は兄に言った「お前は私とずっと一緒にいた。私のものはお前のものではないか」と。


 ぶどう園の労働者、そして放蕩息子の兄、彼らは最初から約束を受けていた。むしろ初めから希望をもらっていた。だがそこで他者との比較がはじまってしまった。誰からも必要とされないのが地獄だとしたら、他者と比較し

羨んだり、また自分を卑下する事もまた小さい地獄の始まりなのかもしれない。


 今日、私たちはぶどう園、神の国の先取りである教会に招かれている。

ここだけは社会の生産性、能力から解放される1時間だと私は信じている。そして十字架に向かうこの1時間は他者との比較からも解放され、たった一人の自分に戻り、それを神が祝福してくれる天国だと信じている。

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