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「闇にまみれて生きるあなたに」関野和寛(ルーテル津田沼教会牧師/病院チャプレン)

世界一有名な聖書の言葉は人知れず闇夜の中で一人の老人に向かって

語られた言葉であった。「神は独り子を賜るほどに世を愛された、

それは御子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得る為である」

(ヨハネ福音書3:16)

この言葉を聴いたのはユダヤ教の中でも最も厳格なパリサイ派という

一派の議員ニコデモという男である。ニコデモは長年、宗教法を司る議員だった。

本音と建前を使い分け、世の移り変わりを見て、人の裏表を見て、

宗教家でもある自分が社会の中で真に救いが必要な人々を救えて

いない現実に苦しみ続けていたのかも知れない。


その中でニコデモは新しい王、救い主と民衆に

称されるイエスを見聞きし、胸のざわめきを抑えきれなくなる。

既存の権威者、既得権益にしがみつく者たちに争い、

徹底的に弱者の側に立ち続けるイエスの姿に真なるものを

感じるのである。


だがニコデモが立っている立場が、ニコデモをイエスから遠ざける。

ニコデモの仲間、ファリサイ派の議員たちはこぞってイエスに

論争を挑み、イエスを反乱者、神を冒涜した者として罪人にしたて

あげていた。自分が属する団体がイエスを糾弾している中で

リーダー格のニコデモは「イエスは真の救い主なのではないか!我々に

できない事をしている!」と言えなかったのだ。真実も求める宗教組織

こそ、組織の論理が先行し、真理を求める道を塞いでいってしまうのだ。


だからこそ、ニコデモはどうしてもイエスに会いたかったのだ。

会いたいが、人目があるからイエスの所には行くことができない。

ニコデモは夜の闇にまみれて、そっとイエスを訪ねた。

夜中にいきなりやって来た客をイエスは受け入れ、

その問いかけに答えるのであった。


その後、世界で一番有名になる聖書の言葉を語られるが

しかしニコデモはイエスの弟子になり、ついて行く事ができない。

生きてきた道、そして背負っているものの重さが、理性となり

イエスの福音の世界、自由に飛び込めない。

「人は何歳になっても霊的に生まれ変われる!

指導者のあなたならわかるだろう?」とイエスに問いかけるも、

ニコデモはどうしてもイエスの弟子になれない。


他の弟子たちは自分の価値観や職業を捨てる事ができた。

けれどもニコデモは信じ続けて来た道を捨てる事はできない。

ニコデモはイエスについて行くことができず、

もとの議員としての生活に戻っていったのだ。


さて、このニコデモはクリスチャンであろうか?

ペトロ、ヤコブ、ヨハネたち12人はイエスについて

行った弟子たちは仕事や家を手放し、イエスについて

行った。けれども彼らは十字架を前にイエスの事を最後に手放してしまう。

ニコデモは自分の立場を捨てる事はできなかった。

けれども限界の中で最大限イエスに手を伸ばし続けていた。

イエスが不当な裁判に直面した時、

「罪を見出せない者に裁判をして良いのか!」

と声をあげる。


それでもニコデモはイエスを信じていると言えないし、

イエスを守る事もできないのだ。そしてイエスは十字架で

処刑されてしまう。ニコデモは見ていたのだろう、真実の

生き方をしているイエスが、弟子たちに捨てられてしまうのを。

そしてイエスを信じたい自分がそのようなイエスを守れず、

同門の宗教者たちがイエスを裁判にかけてしまうのだ。


ニコデモの苦しみ葛藤は限界に達する。

けれども時は遅かった。ニコデモがやっとイエスの

もとに走っていったのはイエスが処刑された後だったのだ。

イエスの遺体を引き取った者の一人はニコデモだった。

日の光が差していた。でももうイエスは遺体となっているのだ。

あの夜にイエスがニコデモだけに語ってくれた言葉が

記憶の中で溢れ出してくる「神は独り子を賜るほどに世を愛された、

それは御子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得る為である」。


ニコデモは泣き崩れたのではないか。

だがこの時にこそイエスの言葉は生きたものとなる。

「神はイエスを十字架に送るほどに世を愛されたのだ!

世とはこの腐敗しきった世界と社会だ。それでも神は

この世界を愛そうとしているのだ。そしてそれは御子を信じる

者が誰一人として滅びないためである」。誰一人としてなのである。

議員だろうと漁師だろうと関係ない。信仰の深さ、経済力、身体状況、

それらも何も関係ない。イエスを信じる者は決して滅びないのだ。


ペトロはイエスを手放した。けれどもイエスはペトロを手放さなかった。

ニコデモはイエスについていけなかった。でもイエスはそんなニコデモ

知っていた。だから一番大切な言葉を伝えた。世界一の神の言葉を。

ニコデモがもう一度イエスにあった時は手遅れであった。

しかしそれは手遅れではなかったのだ。十字架の死は復活の始まりだからだ。

聖書には記されてはいないが、ニコデモはイエスと再び会ったのではないか。

そして今後こそイエスについて行ったのではないか。

神の物語は闇からしか始まらない。そして人間の手遅れは

神の奇跡の始まりなのだ。



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