■神殿vs野原
聖書の実に面白いところは、ほんの一行にこの上ない深い
メッセージが込められている点にある。ルカ福音書のクリスマス
物語は「世界権力vs神の小いささ」の構造の中で始まる。
「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、
登録をせよとの勅令が出た…(中略)…これは最初の住民登録
である」(ルカ福音書2章1節)。ローマの皇帝アウグストゥスから
始まる時代はパクスロマーナと「ローマによる平和」と呼ばれ
地中海世界への支配が始まった時代であった。だが平和とは
名ばかりで実際は破壊と殺戮と略奪、力による支配だったと
歴史家は語る。
その支配の中でキリスト誕生の物語ははじまっていくのだ。
支配拡大、税徴収を円滑に行う為に皇帝アウグストゥスは
全領土の住民に「生まれ故郷に戻り住民登録をせよ」と勅令を
だす。聖書は全領土と訳されるが、これは直訳すれば全世界へ
という意味である。
キリストはこの世界の権力者の力による支配の只中に生まれるのだ。
そして政治家は神の子キリストの命を狙う。そしてキリスト誕生を
信じ、待ち侘びていた宗教者たちは誰もそれを祝いに行かない。
それは今日の社会状況と非常に重なる。
破壊、殺戮、略奪がまかり通り、平和や愛がうわべの偽物になる
世界の中でキリストは生まれる。
そしてそれは地図上に存在する神殿や家ではなく、家畜が
生活をする場、餌を食べる桶の中ではじまると聖書は記すのだ。
世界支配の軍事力に対し、神は無力な赤子しかも家畜が餌を食べる
桶に寝かされている赤子の無力さと貧しさをもって立ち向かうのだ。
■はがれた牧師のメッキ
世界中に紛争、戦争が拡がった今年、キリスト教会のクリスマス礼拝は
その真意を問われる事になった。今までは遠いユダヤ世界で起きた
キリストの誕生を何処かあたたかなメッセージで語る事が許されて
いた。だがキリストが生まれたベツレヘムは今戦争状態にある。
いやずっとそうだったのだ。戦いが止まない戦火、人々の苦しみの
中にキリストが生まれ、それを迎える真意を直視しないでクリスマスを
祝うのであればこれ以上に空いものはない。
今週、私は幼稚園から大学まで多くの人々とクリスマス礼拝を
行ってきた。多くの人々は人生で初のクリスマス礼拝だ。幼稚園生に
私は聞いてみた「クリスマスはサンタさんに何をもらうの?」。
ひとりの子が元気よく答えた「任天堂スイッチ!」。皆がどっと
笑った。私もそれでいいと思う。けれども私は彼らに語りかけた
「ゲームやおもちゃをもらって楽しい時を過ごそう。でもイエス様は
生まれる場所がなかった。そして今もイエス様が生まれた国では
家族を殺されてしまった人、家を亡くした人が沢山いる。その
人たちの為に何かをするのがクリスマスなんだ!みんなお家の家族と
何をするか話し合って、何かして欲しいのです!そしてね、来月また
私が礼拝に来るから、何をしたか教えてください!」すると子どもたちは
「はーい!」と大きな声で返事をしてくれた。「ご家族の皆さん、
できますか!」と問うと皆が「はい!」と答えてくれた。
■チリも積もれば山となるが、それは吹けば飛ぶ山にすぎない
具体的な行動をと呼びかけた幼稚園のクリスマス礼拝から、
私も何かをはじめる事ができた気がした。そこからの大学生たちとの
礼拝だった。学校側とすればキリスト教の名のもとに建てられた
学校だから、一度はちゃんとしたクリスマス礼拝をとの願いだったの
かもしれない。
だが私はこれまでやって来た、良いクリスマス礼拝をもうできなくなって
いたのだ。私はこの大学での礼拝で行う献金を強制ではなく、
自由意志で行う形にし(献金の籠などを回さない)
そして戦争で傷ついているこどもたちの為に用いてもらう事をお願いした。
そして礼拝の中で私は学生たちにこう問いかけた
「クリスマス礼拝に限らず、人は宗教施設でお賽銭のように小銭を捧げる。
でも家族や家を失ったこどもに向けて小銭を渡せるか?私だったらない方が
まし。だから私はこのクリスマス礼拝で受け取る給料の全部を捧げる。
金銭でなくても良いと思う。時間、労働でも良い、でも自分の犠牲を払って
今一番困っている人に向かって行って欲しいのです!」と。
すると何人かの学生が具体的な行動に出てくれた。
「チリも積もれば山となる」と言われる。でもチリの山は吹けば飛ぶ
チリの山だ。そうではなくて私たちの真心を込めた宝が集まれば、
それは豊かな輝きになるはずだ。
■Fake it til you make it
このように呼びかけ、具体的なアクションを幼稚園生から
大学生にまで呼びかけたクリスマスだった。今日のクリスマス
イブ、私は教会に来れない最高齢の人の所へ出かけ、その人の
好きなハイボールを呑んで祝おうと思っている。
先の献金の話も私の訪問も小さな働きだし、偽善なのかもしれない。
けれども例えそれが偽物でも続ければいつかは本物になるかもしれないし、
人には偽物しか出せないのかもしれない。
最初のクリスマス、キリストを祝うはずの宗教者たちは礼拝をしなかった。
キリストを守るはずの権力者たちはキリストを消そうとした。
やって来たのは外国の博士たちだった。彼らは持っていた
宝をキリストに捧げた。その後にやって来た羊飼いたちは
何を捧げたのだろうか。聖書には記されていない。
そして今日、私たちはこの世界に、キリストに何を
捧げていくのだろうか。