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キリスト教三大祭のひとつペンテコステ 2022年6月5日 関野和寛牧師

聖霊降臨(ペンテコステ)

聖書箇所:使徒言行録2章1-21節、ローマの信徒への手紙8章14-17節、ヨハネによる福音書14章8-17節


 聖霊とは何か?クリスチャンにとってのいのち、私たちを突き動かす原動力、ガソリンのようなもの。

そして私たちは聖霊を宿らせる器だ。神を信じることはなんとなくできるかもしれない。

聖書を読めばイエスについて知る事ができる。けれども心で信じるだけのみならず、頭でイエスを理解するだけではなく、聖霊がなければ神の道を進む事ができない。


 聖霊がなければこのルーテル津田沼教会は建たなかったであろう。

例え人の力、お金の力で建物が建設されたとしても、神のスピリットがなければ40年以上も毎週礼拝が続くはずもないであろう。あなたが教会に来た時の事、洗礼を受けた日の事を思い出して欲しい。まさか自分が教会に通い、洗礼を受ける日が来るなどとは思ってもみなかったのではないか。私もそうだ。まさか自分が教会の牧師になるとは思いもしなかった。そして聖霊が私の中に宿り、生きていなければ、私は今日、この礼拝の場になど立てはしない。


 聖霊について、これ以上の説明は不要であろう。言葉などにする事はできない。ある時、外国人向けの礼拝でゲストの牧師を呼び、メッセージを語って貰う機会があった。だがなんと礼拝開始時間になってもそのゲストが来ないのだ。選択肢はただ一つしかなかった。それはその場に居る牧師の私が英語でメッセージを語るしかない。だがなんの準備もしていないのだ。しかも英語、目の前には多国籍の人々が居る。冒頭で「今日はゲストの牧師がドタキャン、急に来なかったので、私が代わりに語ります。準備などしていないのでお聞き苦しいところが、多分にあるかとは思いますが、どうぞお許し下さい」などと言ってしまいそうなところではあるが、私は言い訳は一切しないと決めた。代わりに一言祈った「神よ!ふざけるな!なんとかしてくれ!」。


 心臓をバクバク言わせ、脂汗をかき、そして声を震わせながら、礼拝メッセージを語った。原稿などない。

自信もない。なんとか語り終えるといつも辛口なコメントばかりする教会員が近づいてきた。どうせまた文句を言われるのであろう。燃え尽きていた私は、最後歯を食いしばって言い訳も何もしないと心に決めた。するとなんと人を滅多に褒めないその人の口からこんな言葉が飛び出した「今までのメッセージで一番よかった!ありがとう!」。全然嬉しくはなかった。でも神の力を感じた。私はただただ、その場で湧き上がって来た言葉を声にするだけのパイプだった。


 私たちはいきなり予期せぬ場所、ピンチに立たされる。何もできずに立ち尽くす事がある。だが何もできない時が実は一番強い。その時こそ神に頼るしかないからだ。普段私たちは神など信ぜず、99.99%自分の力、謀で物事を推し進めようとする。だが神の目から見たならばそれは所詮、小手先の技以下だ。


 聖書の中での最初のペンテコステの出来事。イエスの弟子たちはイエスが天に帰る時に、祝福され、地の果てにまで布教に行くように押し出されたはず。だがイエスが天に昇ってしまった後、十日後もまだ何もせず家の中に閉じこもっていたのであろう。どんなに祝福されても、イエスの弟子たちは丸腰で何の実績もない。

あるのは庶民としてのバックグラウンドとイエスの弟子として、最後イエスを見捨てて逃げたという汚点だ。だがそのような弟子たちに聖霊、新しい力が激しく降り注ぐ。何と弟子たちは急に諸外国の言葉で神の救いを語り出したのだ。その様子を聞いて周辺の人々が集まってくる

「何故、彼らは外国語で急に話はじめたのだ?ただの田舎者ではないか?酒に酔っているのか?」。

しかも弟子たちが語り出した言葉は、集まってきた人々それぞれの故郷の言葉だった。つまり嫌でも心に届き、琴線に触れてしまうのだ。


 弟子たちの能力などでは全くない。ただただ神が全ての人に語りたいという想い、スピリットが溢れているのだ。そして弟子たちが無力かつ、弱ければ弱いほど、その神の力が逆に溢れていくのだ。


 神と共に生きるとはこのような事であると思う。

人には必ず自分の力だけでは乗り越えられないような試練、または神の力がなければ進めない行き止まりにぶつかる。だがその時こそ、真の意味で私たちは一番強い。神の力に頼るしかないからだ。

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