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証:  2023年12月31日 実習生 松井史音

先週はイエスの降誕を見ました。それは非常に喜ばしいことです。今日はその降誕の後、

赤ん坊のイエスが私たちの固定概念を打ち壊す姿を見ることになります。

今回の聖書の物語の最初は、モーセの律法からこの当時のイスラエルの文化として男子を

出産したときは、産後40日を経過したときに聖所に行って供え物をささげる必要があり

ました。それで、ヨセフとマリアは40日が過ぎたとき、ベツレヘムからエルサレムの神

殿に行ったのです。それは生まればかりのイエスの贖いの儀式のためでもありました。そ

のような時にマリアとヨセフと赤ん坊のイエスは、シメオンとアンナに出会ったのです。


マリア達が神殿に入ってから、最初に出会ったシメオンは晩年を迎えた老人でした。そん

な高齢のシメオンが赤ん坊のイエスによって常識が覆される経験をしたのです。

高齢のシメオンは神が遣わすメシア、つまりイエスキリストと出会うまで死なないと聖霊

に言われていました。当時のユダヤ人たちは、見えるものは神ではないと考えていたので、

神を見ると死ぬと考えていたのです。シメオンに与えられた、「キリストを見る」とい

う見えない神からの約束はユダヤ人の固定概念を打ち壊すものでした。


皆さんはどうでしょうか。今年を振り返って私がこれまでの常識が壊された時があったな

と思います。それはここルーテル津田沼教会で実習をしている時でした。私はここで壊さ

れたものは二つあります。一つ目は、礼拝の時間が短い(コロナ仕様だとしても)ことで

す。やはりどこの教会を見ても、礼拝の時間は1時間以上、かかっています。しかし礼拝

の時間が短いからと言って、神様を蔑ろにしているわけでもなく、軽視しているわけでも

ありません。むしろ、神に心の底から自信を捧げることができるよう、配慮された礼拝で

す。だからこそ、驚かされました。

そして二つ目は、正しいもの、いい人という仮面を作らなくていいことです。つまり、素

の自分でいられるのです。これまで教会にいる時は、罪人であるのに正しい人を演じなけ

ればならない苦しさを覚えていました。例えば、「きれいな言葉を使う」こと、「神に感謝

できない心の状態でも神に祈って感謝しなきゃいけない空気」、「子供の時から教会に通っ

ているとどのような言葉が求められているか分かるため、自分の意見は押し殺して期待さ

れている言葉を吐き出す時」です。批判されそうだから、本当の気持ちが言えないのです。

このような時が続くと、疲れて教会に行きたくなくなるのです。この思いは、クリスチ

ャンとして生きる若者のほとんどが感じていることだと思います。しかしこの教会に来て、

いい人を作って教会に行かないといけないという考えが覆されました。私たちは100%

罪人であるからこそ、


皆さんがこれまで多くの経験をしてきて、「これはこうだろう」という予測、固定概念が

あることだと思います。「教会はこうでなきゃいけない。洗礼を受けて、クリスチャンと

なった人はこうでなきゃいけない。牧師は、子供は、大人は、学校は、社会はこうでなき

ゃいけない。」そのような考えは、今一度打ち壊され、考え直す時になると思います。


シメオンが打ち壊されたのは、それだけではなかった。シメオンが待ち望んでいた希望は

、「イスラエルが慰められる」ことだった。しかし、赤ん坊であるイエスにあった時、そ

のイスラエルのみの救いという考えもイエスによって打ち壊されたのです。イスラエルだ

けの救いという小さな希望ではなく、全世界の救いという大きな希望へと確信したのです。

つまりシメオンが感じたことは、キリストに対して10期待していたものが、実は1000だっ

たのです。

イスラエルだけに与えられる救いが、本来受け取ることができなかった私たちにも救いが

与えられた。キリストの救いは、イスラエルだけというちっぽけなものじゃない。皆さん

が思っている以上に広く深く、大きいものなのです。

見ることのできない神を腕に抱けた喜びもあるが同時に、この救いがユダヤだけでなく世

界に広がっていく、自分の期待をはるかに超えたという喜びも感じたのです。


しかし喜びだけではなく、あなたの心を刺し貫くだろうと、シメオンはマリアに語った。

羊飼いたちに示された慰め、喜びとはわずかに違う必要な視点をシメオンは語るのです。

「あなたに待っているものは、慰めや喜びだけではない。このキリストが歩む荒野の険し

い道にあなたは繋がっている。」

イエスの物語で起こる出来事の全てのことが、喜びや慰めになるわけではありません。

私たちの常識を打ち壊すイエスキリストの救いは、私たちに慰めと喜びをもたらすだけで

はなく、同時に苦しさももたらします。

それはマリアの経験から私たちにも示されます。

実際にマリアは、この後イエスがつけられた十字架の前に立たされることになります。マ

リアはイエスを聖霊によって身ごもりましたが、それでもやはり、自身の胎から生まれた

「わが子」です。母親にとって、わが子の死を面前にするのはどれだけ辛いことでしょう

か。人々から唾をかけられ、暴力を受け、殺されたわが子を見たマリアは、どれだけ苦し

かったでしょうか。

そしてこの出来事は、マリアだけでなく多くの人の心を刺し貫き、倒れさせた。

私たちも生きている中で、イエスを信じてからの方が苦しい思いをした経験があるのでは

ないだろうか。聖書に書かれていないルールにがんじがらめにされる。色眼鏡で見られる。

思ったようにいかない、人に気持ちが伝わらない、周りに人がいても世界で一人なのだ

という感覚。不条理で絶望ばかりの世界でどのように生きるべきか。そのような苦しみの

前では、私たちは為すすべなく倒れてしまう。信じたとしても喜びだけではありません。

イエスの体が大きな釘で刺し貫かれたように、私たちも大きな絶望に常に刺し貫かれるの

です。しかしその時こそ、私たちの素直な心が明るい所に出てくる時ではないでしょうか。

そんな私たちの心の叫びを喜ばない神がいるでしょうか。もし自分の子供が、喜びや怒り

や、悲しみを素直に告白してくれた時、喜ばない親がいるでしょうか。


そしてイエスは、私たちがそのような暗闇にいる時にこそ、大きな恵みと希望を与えてく

ださるのです。イエスによる救いは、私たちに立ち上がらせる力を与えてくださるのです。

その救いと希望が、十字架の死と復活なのです。私たちがどうしようもないほどの苦し

みから超えるために、イエスは死という壁を壊したのです。弱い私たちを励まし、もう一

度立ち上がらせるためにイエスは十字架の死から復活したのです。マリアは絶望の中にい

た時、イエスの復活という大きな希望を見ました。だからこそマリアのように私たちが、

イエスのその希望を受けて立ち上がった時、大きな恵みを見るのです。


イエスが弱い人たちであった弟子たちを選ばれたように、神は力がない者を用いられます。

そして私たちの苦しみを、嘆きを大きな恵みの実に変えてくださいます。私たちが倒れ

た時、苦しくて、どうしようもなくて立ち上がる力もないかもしれません。だからこそ私

たちは、苦しみから出た叫びを神にぶつけ、立ち上がる力を貰いましょう。その時、私た

ちの常識を超えた大きな祝福と大きな恵みがその上に必ずあるからです。

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