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証:  2024年3月24日 実習生 松井史音

私はこの春で東京基督教大学4年間での学びと、ルーテル津田沼教会での実習を終えます。

初めに皆さんへのお礼として、ルーテル津田沼教会での一年間について述べさせてください。この一年間、教会での実習を通じて、本当に皆さんから愛されたと実感しています。大学4年の当初、新入生に怖がられることが多かった私ですが、教会では素直でいい子だと評していただき、中には「第二の息子」と呼んでくださる方もいらっしゃいました。本当にうれしく思います。

私は東京基督教大学を卒業し、これからは同校の大学院で学ぶ予定であり、来年度からは赤羽の教会で実習を行います。今後も第二の息子だと思って応援していただけると幸いです。

ところで、私が第二の息子と呼ばれたように、皆さんも自身のアイデンティティや、外見、肩書きで呼ばれた経験があると思います。

息子や娘、父親、母親、おじいさん、おばあさん、学生、アルバイト、上司、フリーターといった呼び名で呼ばれることもあれば、自分の気質や病名、障がい名で呼ばれることもあるかもしれません。しかし、これらの呼び名が、自分の名前のようになってはいないでしょうか。


私たちの肩書きや名前は、時と場合と状況によって変わります。では、今、ルーテル津田沼教会にいる皆さんは何者でしょうか?そして、私たちが信じるイエスとは何者でしょうか?今日読まれた聖書箇所は、キリスト教で非常に重要な場面であり、イエスキリストとあなたは何者なのかという答えを大胆に語っています。


イエスはこれまで病気に苦しむ人々を癒し、飢えている人々には食事を与え、社会的に排除された罪深い者たちとも共に過ごしてきました。そして、そのようなイエスが弟子たちと共にエルサレムに到着します。そこでも、社会で疲弊した多くの人々が集まり、「ユダヤの王だ!救い主が来た!」とイエスを称賛し、歓迎しました。しかし、これまで共にしてきた弟子の一人に裏切られ、兵士に捕まります。そして、すぐに裁判にかけられ、イエスを妬む者たちによる尋問が始まりました。「ユダヤの王なのか?それなら自らを救え。」とイエスを嘲笑し、唾を吐く者が多くいました。その後、イエスは群衆の前に引き出されました。すると、群衆は「十字架にかけろ!」と叫び始めました。この言葉は、原文では一語で表現されます。スポーツ観戦などで「ニッポン!ニッポン!」と叫ぶ姿が見られます。それと同じように、「十字架!十字架!」と叫ばれていたのです。そして、集団心理は恐ろしいもので、群衆はイエスを妬んでいた人々に扇動され、考えることなく悪事に加担してしまいました。


子供の頃、友達と遊んでいた遊戯王というカードゲーム。ある日、友達のカードが盗まれ、騒ぎになってしまいました。そして、盗まれたのは私だと言われました。友達だけでなく、周りの人たちからも責められました。何もしていないのに、盗んだ者として責められました。

当然、傷つき、責めた人たちを恨みました。そして自分のことも「ダメな奴だ」と、自身でレッテルを貼りました。しかし、盗人と私に名前が付けられたように、私も心の中で人を決めつけ、名前を付けてしまいました。結局、私を盗んだ者と責めた人たちと何も変わりません。イエスをからかい、鞭で打ち、十字架につけろと言った人々も、根っこは変わらないのです。


これは私だけでしょうか。人から、または自身が呼ぶ呼び名によって、私たちの心は揺れ動かされます。しかし、そのようなものに心を揺れ動かすのではなく、受難節で私たちが一番しなければいけないことは、キリストの十字架に注目することです。

なぜならキリストの十字架はこの世界で、唯一揺るぐことがないからです。

イエスの十字架は、最初の人アダムとエバから始まり、今日を生きる私たちの罪を背負うための十字架です。

「何が起きたとしても、どんな過ちがあったとしても、私たちの心を揺れ動かす言葉がささやかれようとも、そんなことであなたの価値は決まらない。色んな人からどんな言葉を言われようとも、私が命をかけてあなたを愛した十字架の真実は揺るぐことはない。」とイエスは語っています。


裁判中、総督のピラトはイエスに尋ねました。「ユダヤ人の王と呼ばれているが、あなたは何者なのか。罪を犯していないのに、なぜあなたをねたむ者たちがあなたを殺そうとしているのか。あなたは何者なのか。」

私ははっきり言います。イエスは、私たちのために血を流し、命を捨てる神の子キリストです。そして、罪人の私たちを赦し、共に生きて下さる人です。


時に私たちは、さまざまな人から勝手に名前をつけられ、見捨てられることがあります。「あなたには常識がない」「あなたはしっかり者で何でもできる」「あなたは母親なんだから我慢しなさい」「もう年だから仕方ない」「障がいや病気を患っているから」といった言葉を浴びせられることもあります。

イエスもさまざまな人から「ユダヤ人の王」と呼ばれ、自分の思いとは異なると見捨てられました。しかし、そんな言葉たちに揺れ動かされず、イエスは十字架に架かりました。確かに、あなたも誰かを傷つけてきたかもしれません。しかし、教会があり、十字架があるのは、皆さんが赦され、また癒されるためです。


 私たちは、人の言葉で、また自身の言葉で振り回されます。ですが、絶対に揺るぐことのないイエスが私たちと共にいてくださるのなら、一歩歩むことができるのではないでしょうか。今、助けを必要としている人や、癒しと希望を求めている人がこの世界にはたくさんいます。もし今日、キリストが皆さんの心に触れてくださったのであれば、キリストのように、一言でもいいから声をかけてみてください。

「本当に、この人は神の子だった。」と言った百人隊長のように、キリストの十字架は皆さんに力を与え、助けてくれます。だからこそ今日も大胆に十字架に近づき、共に赦され、今週も生きてまた会いましょう。

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