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証(あかし):神学生 福島慎太郎 2022年9月11日

2ヶ月前、私は教授に呼び出されました。あまり話をすることが無かった先生は私にこう言ってくれました。「福島くん、この5年間君のことは疑っていた。神学校の学風にも馴染まず、教員の想定するコースからもはみ出しまくってる。しかし最近分かったんだ。君には人を束ねる魅力がある。神学生には出来ない発想がある。」そして最後に言われました。「話の本論ですが、これ以上レポート出さないと留年しますよ。」。そのレポートも無事に出したので卒業は大丈夫なのですが、先生に声をかけられたことが私にとってとても嬉しかったです。それは私たちが意識しているかどうかに関わらず見てくれている人がいる、という事実ですね。


羊飼いたち

 今日の聖書の物語を見ると、そこにはレポートからではなく羊飼いから逃げ出す一匹の羊の様子が。そして銀貨たった一枚がどこかへ紛失してしまった物語が描かれています。

 羊飼いは当時、非常にポピュラーな仕事でした。アブラハムやヤコブ、そしてダビデ。何をしたかは詳しくなくともその名前だけは聞いたことがあると思います。彼らは旧約聖書に登場する主要人物たちですが、その共通点は全員羊飼いでした。羊飼いは何百匹の羊を束ね、すくすくと成長させます。


逃げ出す羊

 そんなある時、一匹の羊が群れから逃げ出してしまったのです。例えば皆さんが友人や家族とはぐれた時、すぐに気づくと思います。「あ、あいついなくなったな」と。しかしこの時羊は百匹です。今ここで羊が百匹いて一匹逃げ出して私たちは気がつくでしょうか。そもそも百匹も数えられないし、把握出来ないと思います。

 聖書はたびたび例え話が出てきます。しかしそれらは全て意味を持っているのです。読み飛ばしそうな小さな一言にも神からのメッセージがあります。

 羊飼いもまさにそうです。実は当時の羊飼いたちは一匹一匹、羊の特徴を捉えており、自分が飼っている全ての羊を把握していました。だからその中から一匹が逃げ出したとしても、手に取るように分かるのです。


家に帰る羊

 羊飼いにとっての羊の大切さは分かりました。ではどうやって逃げた一匹を羊飼いは探しに行ったでしょうか。逆に質問をしたいです。皆様が同じ状況ならどうしますか?私ならば、誰か知り合いを呼んで九十九匹を見てもらって探しに行く。必死に考えましたがこれくらいしか出てきません。だって大切な羊たちだから。九十九匹も一匹も同じくらい愛しているから、これ以上羊たちに不安を与えたくありません。しかしこの羊飼いは一番、頓珍漢な、一番、おろかな選択をしたのです。一匹のために九十九匹を置いて行ったのです。

羊飼いなる神

 ここまで来たら分かるかもしれませんが、この羊飼いは神、イエス・キリストを表しています。イエスはあなたのためならどこにでも行く、どこまでも見守り続けるというメッセージがここには込められています。しかし私たちがよく覚えておきたいのは、神の真似はするなということです。

 神の行動は全てに理にかなって美しい、訳ではありません。羊九十九匹を置いていく神です。私たちが、例えば三人子どもがいるとします。そのうち一人はぐれたからといって二人を残して探しに行かないでしょう。そんなことをすれば二人も迷子になり、全てが無駄になります。これがニュースにでもなればとんだ間抜けな親だと非難されるでしょう。今神がしていることは、それと同じ、それ以上のことです。この完全に非合理的な物語を私は美しいとは思えません。「迷った一匹を探しに行くのではないか?」(ルカ15:4)。行かねーよ!!むしろ何やってんだと神と言いたいところです。しかしそこに神からのメッセージがあります。この羊飼いは、神は、羊のためなら、人間のためなら計算、常識全てを度外視で行動するということです。ましてや私たちが道に迷う時、たとえ九十九匹がどうなっても構わないといって駆け出す方なのです。


一匹のあなたの価値

 その方は何のために私たちに駆け寄るのか。聖書によると私たちが悔い改めるためと記されています(ルカ15:7)。ここに全てがあるのです。

 皆さんは羊の特徴をご存知でしょうか。羊飼いにあった牧師から聞いたことがあるのですが、羊飼いによると羊は1. 遠くから見ると綺麗だが、近寄ると意外と汚い、2. 突然意地をはることがある。3. 周りの真似をすぐにする。最初に私言いました。聖書の記述は神からのメッセージ。細かい部分にまでその意味が込められている。まさにこの羊、私たち人間のことではないでしょうか。

 私たちは自分を綺麗に取り繕うとします。しかしすぐにボロが出る。社会は競争です。誰かに負けたくないと息が切れそうな中で意地を張り、誰をも寄せ付けたくない時があります。そしてそんなことを言いつつも、私たちは周りの目が気になり、誰かの真似をする。まさに迷える小羊そのものです。

 そんな羊、私たちに聖書は語るのです。「悔い改めよ」と。この「悔い改める」は聖書に登場する重要な言葉のひとつです。そして私たちはこの言葉の意味を常々間違えます。後悔とか、懺悔とか、自分の心にネガティブなイメージを思い浮かべます。しかし皆さん、皆さんが神様だとして「僕は最低です。僕は何もできないです。」と後悔と懺悔をする人間を見て「よしよし言いクリスチャンだ」と喜べるでしょうか。そんな人いないでしょう。いません。そして悔い改め自体、そのようなことを語っていません。では悔い改めとはなんでしょうか。それは「視線を変える」ということです。迷いの中にある人、あなたは今日神の方を見なさい。社会に押しつぶされそうな人は今日神を、周りに合わせなきゃと焦っている人は神を、そして自分の声に従って迷っている人は今日神を。今語られているのです。

 そしてそれを語るキリストは遠くにいるわけではありません。あなたが振り向いてくれるように、今日九十九匹をも置いていくその愛と迫りを持って今近づいているのです。具体的に何を持って近づいていると言えるでしょうか。それは礼拝です。礼拝の時間を通して、聖書の言葉を聞く時、祈る時、賛美を捧げる時、それはまさに神と私たちの出会いの時間なのです。ここに私がいるぞ、そう語られる神がいるのです。私たちは今日、何を見て生きるでしょうか。


コインの物語

 ドラクマは当時の一日分の労賃に相当する金額です。羊飼いとコインの物語、伝えたい内容は同じです。たとえ一枚であっても。聖書はここで確信に迫るのです。大切なことは何度も語られるのです。どこにいるあなたでも、私は迎えにいく。暗闇にいるなら、私の方を見よ。そう語られる神がここにいるのです。


終結

 私たちは今、どこを見ているでしょうか。さあ神を見ましょう。羊のように彷徨いやすく、コインのように転がりやすい私たちです。しかしそんな私たちを最後まで握り締めようとするお方がおられる。その人の方を、今日も見ましょう。

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